2007年 05月 19日
戦争に加担することを拒否する非暴力不服従の闘い:半世紀前の砂川闘争から学んだこと (吉川勇一,2005)
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辺野古の年寄りたちはジュゴンの棲む美しい海を守るために8年間座り込みを続けてきた.沖縄には60年前に体験した戦争の地獄絵の記憶がある.しかし辺野古のオジィ,オバァの闘いはむしろこの沖縄の基地から飛び立ってゆく米軍機がベトナムやイラクの人たちの頭上に爆弾をばら撒いていることが許せなくて座り込みを続けているのだ.これは50年前に砂川闘争に立ち上がった農婦たちの気持ちでもある.「私達はね、何も自分の生活だとか土地だとか、そんなものが惜しくて反対してるんじゃないよ.ここが原爆基地になるちゅうことが一番の問題だがね」 辺野古の闘いは完全非暴力・無抵抗の抵抗という原則を貫き通している.それはそのまま砂川闘争のモットーだった.2007年5月政府は海上自衛隊の掃海母艦ぶんごを辺野古沖合いに派遣して住民の平和的抵抗を剥き出しの軍事力で制圧しようとしている.軍隊が何を(基地利権)何から(国民の抵抗)守ろうとしているのかを浮き彫りにする図式である.

星紀市編 『砂川闘争50年 それぞれの思い』 2005.10. けやき出版 所載
半世紀前の砂川闘争から学んだこと (付 「1956年10月の日記から」)
(付)一九五六年の日記より (編者注:適宜改行を付加した)
十月四日 (木) 曇
今日から砂川の強制測量、社会党の腰抜け戦術。遂に第一日目から杭が砂川の土地にうちこまれたという。調達庁長官の談話をラジオで聞いたが、彼らの意図はハッキリしているではないか。「全学連もいたことはいたが、しかしわれわれは社会党議員団と話し合って平穏裡に事を運ぼうとした」と!
社会党、彼らは砂川を実力で守る意志がない。もちろんわれわれも平穏を望む。いたずらに暴力を好みはしない。しかし必要とあらば、われわれは断乎として後へひかない。日曜の夜から砂川へ泊りこむことにした。
闘い! 日本の、祖国の土を守る闘い! 祖国の土地、この闘いの中から、祖国の実体、祖国の実質、それを掴みたい。
フランス人はフランスを愛し、フランスを護る。イタリア人はイタリアを愛しイタリアを護る。その闘いと祖国の間にはいささかも間隙がない。「フランスの進軍ラッパ」「神を信ずる者も信じない者も」、「無防備都市」……日本人はもちろん、僕らも日本を愛し日本を護る。ところで、この間隙、この寂寞、この疲労、誰の顔にも浮ぶ、あの黄色い嘘偽は何かで、これを埋めること、嘘偽を追放すること。砂川の闘い。祖国の土地を守る闘い。泊り込み。僕の存在の投入。一致するか?
馬車馬の眼隠しをはずすことが、どうして腐敗なんだ? 武藤の馬鹿め! 僕は今、食欲があるんだ。何でも食う。それが腐敗か? もちろん腐ったものも食うかも知らん。少しは腹が痛くなるかも知らん。しかし僕は腐らない。あゝ、たゞ、どうしても今の仕事にはあんまり食欲がないんだ。
十月十四日(日) 晴
砂川へ丁度一週間泊りこんだ。今のニュースでは明日からの測量は中止になったという。
砂川の町はきれいだ。真直ぐに走る白い往還――これが五日市街道である。立川からのバスが七番で左に折れ、この街道を走るとすぐ右手には少し白く濁った小川が野菜の切れ端を浮べて急ぎ足に流れている。両側の藁葺き屋根を実直ぐにのびたけやきの大木の葉がやわらかくやさしく包んでいる。道の左右に所々立並ぶ「OFF LIMITS 警官隊・測量隊立入禁止」とか「心に杭は打たれない」といった立板がなければ、そして、あゝ、あのすさまじいグローブマスターやジェット機の轟音さえなければ、何の変ったところもない普通の武蔵野の特徴をもった一農村なのだ。
夜、飛び立つ飛行機の騒音も途絶え、小川のせゝらぎと虫の音だけになった砂川町は、静けさそのものだ。
ところが、その夜の砂川町も、一度道を左に折れて数丁畠の中の間道を歩けば、突然日本の現実につき当ることになる。地平線一帯に、向うの丘陵の麓まで、一画光の海である。その光に照らされて銀色にジェット機、輸送機、双胴の爆撃機が並んでいるのが目に入る。その間に赤、青の標識燈が明滅し、探照燈が二本の光菅を放っている。一本は垂直に登って夜空の雲を射抜き、一本は水平にのびて円形を描いて廻る。その不気味な明るさは悪魔の住む城を思わせ、その怪異な動きは触手をうごめかす巨大なアミーバを聯想させる。エンジンの試動の爆音だけが、その渦の中から地鳴りの如くひびいてくる。
TACHIKAWA・AIR・BASE!
昼は耳をつんざくばかりに空気を振動させ、基地の鉄条網すれすれに飛行機がとびたち、人々の頭上をかすめ、五日市街道のけやきの小枝をざわざわとゆすぶってゆく。青色の鉄かぶとをかぶり、自動小銃を肩にかけた米兵が柵のうち側からそれを見守っている。
今、その滑走路を、原爆搭載用ジェット爆撃機が飛び立てるようにするため、多くの民家と畠を奪いとろうとするのだ。「私達ァね、何も自分の生活だとか土地だとか、そんなものが惜しくて反対してるんじゃないですだ。こゝが原爆基地になるちゅうことが一番の問題でさァね」ある農民の婦人はこう話してくれた。
十二日は雨こそ降っていなかったが三番ゲート前の泥濘の道で僕らと警官隊が衝突した。無抵抗でたゞスクラムを組んでいた僕らに腕をねぢ上げ、靴で蹴り胸を突くの暴行を加える。僕の上衣はひきさかれ、下半分がちぎれ飛んだ。あゝ、前日の晩、遅くまでかゝつてこしらえ上げ、雨中の立哨の時も手にして覚えていた中国語の単語帖がポケットと一緒に泥水の中にふみにじられた。向うずねは蹴られた時のすり傷が赤くはれて残った。
でも僕らは勇敢だった。もちろん労働者の中にも立派な人はいた。しかし、幹部の悪質な裏切り、サボタージュで彼らの戦意は極度に喪失され、闘いのエネルギーの能率はわるかった。全学連と僕ら平和委員会の部隊は不屈そのものだった。なぐられ、けられ、突かれ、倒されても、尚スクラムの中へとぴこんだ。警官のけだもののような壁を二回くぐつて三度目に隊列の最前線に立った時、警官隊は引揚げた。涙がポロポロとこぼれた。どこかの映画社がそんな僕をニュースに撮っていたようだった。泥にまみれた顔を、闘いの間中離さなかったハンカチ、祐子(※注1)からもらったハンカチでふいたら、祐子の匂いがした。ハンカチにそっと接吻をしたらまた涙が出て来た。

1965年10月13日立川市砂川町の芋畑で地元農民らと警官隊が衝突した“流血の砂川”の現場を撮影した一枚の貴重な写真.フリーカメラマン佐伯義勝氏はもみくちゃにされながらもカメラを頭上に掲げて爪先立ちでこの歴史的事件を記録した.闘いは丸一日続き800人以上の負傷者を出すという激しいものだった.たそがれ時になるとどこからともなく「赤とんぼ」の歌が拡がり,対峙した警官隊もそれに唱和したと伝えられている.翌14日午後8時,政府は測量中止を決定し,発表した.この報に接した砂川町は,「勝った」,「勝った」の歓声で沸きかえり,五日市街道には喜びのどよめきがこだまして,「ワッショイ」,「ワッショイ」のデモが渦巻いた.「土地に杭は打たれても,心に杭は打たれない」のスローガンの元に闘われた砂川闘争は14年にわたる永き闘いであったが,68年12月ついに基地計画の中止が発表され,飛行場を事実上閉鎖,77年に全面返還された.跡地の東側は陸上自衛隊駐屯地,海上保安庁・警視庁・東京消防庁などの施設が設けられて広域防災基地となり,中央部は国営昭和記念公園に変わった.
十三日、この日は物凄かった。朝から予想はしていたものの、雨の中の大乱闘となった。この日の警官隊は乱闘服に青鉄兜、棍棒。スクラムを組んで警官隊とぶつかる。もちろん僕らは何ももっていない。左胸のポケットにはあのハンカチが二つ。右の胸のポケットには祐子の写真の入った革の定期入。それだけが彼らの棍棒の突き上げを防ぐ武器だ。目茶苦茶に棍棒で突きあげる。軍手をはめた拳が服といわず口といわずなぐりとばす。スクラムはちぎられ、隣の同志が横倒しに倒れる。だき起す暇もない。あっという間に胃のあたりを蹴られて前のめりになった。
痛かった。ウッという叫び声をあげたと思う。後から来た同志がだいてくれたが、もう警官隊の人垣の中に放り込まれていて、二人だけがかたまってきりきり舞いをする。一体僕一人に何人の警官が襲いかかったのだろう? 足、脚、腰、胸、背、肩、頭、顔、一斉に拳と棍棒の雨が降って、眼もあけられない。倒れそうになって右側の警官にぶつかると「何だ貴様、抵抗するか!」とばかりに突きとばす。突きとばされて左の警官にぶつかると「まだ来るか!」と蹴上げる。警官隊の一団からようやくはいだした時は完全に参っている。畜生!
看護隊の女子学生が大丈夫ですかとかけよってくれるが、そういわれると意地でもいや大丈夫、何でもありませんと答えてしまう。再び後へ廻って隊列に入るが数は少い。都労連はだらしない。お義理に一回警官隊にぶつかるともうバラバラに崩れてお終いだ。全学連と僕らの隊、国鉄、私鉄、金属の各労組がよく頑張る。二度目に栗原さん宅付近で衝突した時は負傷者が続出した。眼から血をふく者、唇が裂けた者、顔が紫色にはれ上った者、頭を割られる者、……「救急車です、通して下さい、重傷者が乗っています」スピーカーが鳴っても警官隊は道をあけない。数十分の乱闘の間、救急車はそこに立止ってしまう。
闘い半ばで、指揮系統が崩れた。僕らがそれにとって代る。しかしもう遅い。全学連と僕らだけの僅かの部隊では圧倒的に多い警官隊を破るわけにはいかない。労組は完全に戦意を失っている。またしてもダラ幹の裏切り!
測量のポールは立てられ、巻尺の線がふみつぶされた藷畠の上をのびてゆく。もう今日は涙も出ない。全身に痛みを感じながら、スクラムを組んで雨中に歌をうたって立っていた。雨が身体までしみ通って背中を流れた。「祐子、僕は二人分以上働いたよ。だけど、今日は勝てなかったよ。」僕らは最後に勝つまでは、いつも負けているものなんだね。僕は杉浦民平の言葉を思いだしていた。
今日、十四日はビックリした。各単産団体代表者会議から帰って阿豆佐味天神社へ戻ったら鳥居の脇に親父(※注2)と祐子がいるではないか!心配でやってきたという。祐子は夕べは殆ど眠れなかったと。赤旗、組合旗がなびき、革命歌がどよめく阿豆佐味天神社の境内にいた祐子は、「あーあ、こゝにずっといたい」とため息をついていた。火焔瓶を投げに帰ってきた(※注3)つもりだったという彼女。健康さえ許せばだ。早く丈夫になり給え。そう怒りたまうな。
山六老(※注4) にあった。関西地方議員団の帯を肩からかけている。「山六さん、八・六が終ってから俺少しわけがわからなくなっちゃったんだ。それで砂川へやってくれって頼んで来たんだけど、事務所にいるよりずっと元気がでるね」 こういう僕に、老人は大きくうなずいて「そうだ、そうだ。人に会い、人が何を考えているかがわかる。日本人の考えていることが判るだろう。それがいちばん大切だ」といった。
昨日のクラス会はとうとういけなかった。何年皆と会わないだろう。小林先生、幸田、加藤、佐藤、石川、大平、明石……、その日の昼まで行くつもりだったけれど、二時頃から始まった乱闘ではぬけるどころではない。血しぶきの隊伍の中で、僕は小学校の親友にあやまっていた。ごめんよ。その次の時にはきっと行くから。
十月十六日 (火) 快晴
真青な空に薄く浮ぶ雲。五日市街道に立ってまだ痛む腰をうんとこさと思いきり伸ばしてのびをすると、深い青空が目にしみる。
「あーあ、ほんとにこういうのを秋晴れ、日本晴れって云うんだろうなァ」
今日の砂川を歩く人々の顔は生気に満ち溢れている。自転車に乗ってくる人の腕章だけはまだよれよれのものでも、そのワイシャツは白く洗ってある。街道にはためく組合旗もすっかり泥を落されており、小川では全学連の学生が農家から借りていたリヤカーを秋の日射しを背に一ばい受けながら鼻歌をうたいつゝたわしでこすっている。そのうしろを毛布やかっばを肩にかついで砂川からそれぞれの自宅にもどる人々が「ごくろうさん、お先きに帰ります」と声をかけて通る。バスの中からも「さよならー、ごくろうさんでしたー」という声がかけられる。
街道一ばい、町一ばいに、測量は自分達の力で阻止させたんだ、闘いは勝利したんだという意気がみなぎり、太陽の下でピチビチとはねかえっているようだ。
宿舎の近隣の人々、地元反対同盟、団結小屋、全学連、炊事を担当してくれた婦団連の小母さんたち、町役場と宮崎町長、青木行動隊長……お世話になった人々にお別れの挨拶とお礼をして十日間の闘争のこの町を離れる。泥だらけの作業衣を脱いで背広に着換えたら、かえって本当の姿でないような妙な気さえしたのだった。
(当時の記述のままだが、「水直」→「垂直」など明瞭な誤字を一部訂正したり、「斗争」といった表記を「闘争」になおしたりした。)
※注1 この二年後、一九五八年に祐子と結婚。祐子は二〇〇五年六月、七十四歳で死去しました。
※注2 父は十年ほど前に死去いたしました。
※注3 祐子は中国・大連で幼少時を過ごし、一家は八路軍に徴用されて解放戦争に組み込まれ、戦後の北京大学に日本人として初めて入学、一九五三年に帰国しました。
※注4 山六老=元日本共産党関西地方委員会幹部の故山田六左衛門さん。
辺野古 HENOKO 2007 (Video.Google.com, 2007-01-29, 24分30秒)
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今日から砂川の強制測量、社会党の腰抜け戦術。遂に第一日目から杭が砂川の土地にうちこまれたという。調達庁長官の談話をラジオで聞いたが、彼らの意図はハッキリしているではないか。「全学連もいたことはいたが、しかしわれわれは社会党議員団と話し合って平穏裡に事を運ぼうとした」と!
社会党、彼らは砂川を実力で守る意志がない。もちろんわれわれも平穏を望む。いたずらに暴力を好みはしない。しかし必要とあらば、われわれは断乎として後へひかない。日曜の夜から砂川へ泊りこむことにした。
闘い! 日本の、祖国の土を守る闘い! 祖国の土地、この闘いの中から、祖国の実体、祖国の実質、それを掴みたい。
フランス人はフランスを愛し、フランスを護る。イタリア人はイタリアを愛しイタリアを護る。その闘いと祖国の間にはいささかも間隙がない。「フランスの進軍ラッパ」「神を信ずる者も信じない者も」、「無防備都市」……日本人はもちろん、僕らも日本を愛し日本を護る。ところで、この間隙、この寂寞、この疲労、誰の顔にも浮ぶ、あの黄色い嘘偽は何かで、これを埋めること、嘘偽を追放すること。砂川の闘い。祖国の土地を守る闘い。泊り込み。僕の存在の投入。一致するか?
馬車馬の眼隠しをはずすことが、どうして腐敗なんだ? 武藤の馬鹿め! 僕は今、食欲があるんだ。何でも食う。それが腐敗か? もちろん腐ったものも食うかも知らん。少しは腹が痛くなるかも知らん。しかし僕は腐らない。あゝ、たゞ、どうしても今の仕事にはあんまり食欲がないんだ。
十月十四日(日) 晴
砂川へ丁度一週間泊りこんだ。今のニュースでは明日からの測量は中止になったという。
砂川の町はきれいだ。真直ぐに走る白い往還――これが五日市街道である。立川からのバスが七番で左に折れ、この街道を走るとすぐ右手には少し白く濁った小川が野菜の切れ端を浮べて急ぎ足に流れている。両側の藁葺き屋根を実直ぐにのびたけやきの大木の葉がやわらかくやさしく包んでいる。道の左右に所々立並ぶ「OFF LIMITS 警官隊・測量隊立入禁止」とか「心に杭は打たれない」といった立板がなければ、そして、あゝ、あのすさまじいグローブマスターやジェット機の轟音さえなければ、何の変ったところもない普通の武蔵野の特徴をもった一農村なのだ。
夜、飛び立つ飛行機の騒音も途絶え、小川のせゝらぎと虫の音だけになった砂川町は、静けさそのものだ。
ところが、その夜の砂川町も、一度道を左に折れて数丁畠の中の間道を歩けば、突然日本の現実につき当ることになる。地平線一帯に、向うの丘陵の麓まで、一画光の海である。その光に照らされて銀色にジェット機、輸送機、双胴の爆撃機が並んでいるのが目に入る。その間に赤、青の標識燈が明滅し、探照燈が二本の光菅を放っている。一本は垂直に登って夜空の雲を射抜き、一本は水平にのびて円形を描いて廻る。その不気味な明るさは悪魔の住む城を思わせ、その怪異な動きは触手をうごめかす巨大なアミーバを聯想させる。エンジンの試動の爆音だけが、その渦の中から地鳴りの如くひびいてくる。
TACHIKAWA・AIR・BASE!
昼は耳をつんざくばかりに空気を振動させ、基地の鉄条網すれすれに飛行機がとびたち、人々の頭上をかすめ、五日市街道のけやきの小枝をざわざわとゆすぶってゆく。青色の鉄かぶとをかぶり、自動小銃を肩にかけた米兵が柵のうち側からそれを見守っている。
今、その滑走路を、原爆搭載用ジェット爆撃機が飛び立てるようにするため、多くの民家と畠を奪いとろうとするのだ。「私達ァね、何も自分の生活だとか土地だとか、そんなものが惜しくて反対してるんじゃないですだ。こゝが原爆基地になるちゅうことが一番の問題でさァね」ある農民の婦人はこう話してくれた。
十二日は雨こそ降っていなかったが三番ゲート前の泥濘の道で僕らと警官隊が衝突した。無抵抗でたゞスクラムを組んでいた僕らに腕をねぢ上げ、靴で蹴り胸を突くの暴行を加える。僕の上衣はひきさかれ、下半分がちぎれ飛んだ。あゝ、前日の晩、遅くまでかゝつてこしらえ上げ、雨中の立哨の時も手にして覚えていた中国語の単語帖がポケットと一緒に泥水の中にふみにじられた。向うずねは蹴られた時のすり傷が赤くはれて残った。
でも僕らは勇敢だった。もちろん労働者の中にも立派な人はいた。しかし、幹部の悪質な裏切り、サボタージュで彼らの戦意は極度に喪失され、闘いのエネルギーの能率はわるかった。全学連と僕ら平和委員会の部隊は不屈そのものだった。なぐられ、けられ、突かれ、倒されても、尚スクラムの中へとぴこんだ。警官のけだもののような壁を二回くぐつて三度目に隊列の最前線に立った時、警官隊は引揚げた。涙がポロポロとこぼれた。どこかの映画社がそんな僕をニュースに撮っていたようだった。泥にまみれた顔を、闘いの間中離さなかったハンカチ、祐子(※注1)からもらったハンカチでふいたら、祐子の匂いがした。ハンカチにそっと接吻をしたらまた涙が出て来た。

十三日、この日は物凄かった。朝から予想はしていたものの、雨の中の大乱闘となった。この日の警官隊は乱闘服に青鉄兜、棍棒。スクラムを組んで警官隊とぶつかる。もちろん僕らは何ももっていない。左胸のポケットにはあのハンカチが二つ。右の胸のポケットには祐子の写真の入った革の定期入。それだけが彼らの棍棒の突き上げを防ぐ武器だ。目茶苦茶に棍棒で突きあげる。軍手をはめた拳が服といわず口といわずなぐりとばす。スクラムはちぎられ、隣の同志が横倒しに倒れる。だき起す暇もない。あっという間に胃のあたりを蹴られて前のめりになった。
痛かった。ウッという叫び声をあげたと思う。後から来た同志がだいてくれたが、もう警官隊の人垣の中に放り込まれていて、二人だけがかたまってきりきり舞いをする。一体僕一人に何人の警官が襲いかかったのだろう? 足、脚、腰、胸、背、肩、頭、顔、一斉に拳と棍棒の雨が降って、眼もあけられない。倒れそうになって右側の警官にぶつかると「何だ貴様、抵抗するか!」とばかりに突きとばす。突きとばされて左の警官にぶつかると「まだ来るか!」と蹴上げる。警官隊の一団からようやくはいだした時は完全に参っている。畜生!
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闘い半ばで、指揮系統が崩れた。僕らがそれにとって代る。しかしもう遅い。全学連と僕らだけの僅かの部隊では圧倒的に多い警官隊を破るわけにはいかない。労組は完全に戦意を失っている。またしてもダラ幹の裏切り!
測量のポールは立てられ、巻尺の線がふみつぶされた藷畠の上をのびてゆく。もう今日は涙も出ない。全身に痛みを感じながら、スクラムを組んで雨中に歌をうたって立っていた。雨が身体までしみ通って背中を流れた。「祐子、僕は二人分以上働いたよ。だけど、今日は勝てなかったよ。」僕らは最後に勝つまでは、いつも負けているものなんだね。僕は杉浦民平の言葉を思いだしていた。
今日、十四日はビックリした。各単産団体代表者会議から帰って阿豆佐味天神社へ戻ったら鳥居の脇に親父(※注2)と祐子がいるではないか!心配でやってきたという。祐子は夕べは殆ど眠れなかったと。赤旗、組合旗がなびき、革命歌がどよめく阿豆佐味天神社の境内にいた祐子は、「あーあ、こゝにずっといたい」とため息をついていた。火焔瓶を投げに帰ってきた(※注3)つもりだったという彼女。健康さえ許せばだ。早く丈夫になり給え。そう怒りたまうな。
山六老(※注4) にあった。関西地方議員団の帯を肩からかけている。「山六さん、八・六が終ってから俺少しわけがわからなくなっちゃったんだ。それで砂川へやってくれって頼んで来たんだけど、事務所にいるよりずっと元気がでるね」 こういう僕に、老人は大きくうなずいて「そうだ、そうだ。人に会い、人が何を考えているかがわかる。日本人の考えていることが判るだろう。それがいちばん大切だ」といった。
昨日のクラス会はとうとういけなかった。何年皆と会わないだろう。小林先生、幸田、加藤、佐藤、石川、大平、明石……、その日の昼まで行くつもりだったけれど、二時頃から始まった乱闘ではぬけるどころではない。血しぶきの隊伍の中で、僕は小学校の親友にあやまっていた。ごめんよ。その次の時にはきっと行くから。
十月十六日 (火) 快晴
真青な空に薄く浮ぶ雲。五日市街道に立ってまだ痛む腰をうんとこさと思いきり伸ばしてのびをすると、深い青空が目にしみる。
「あーあ、ほんとにこういうのを秋晴れ、日本晴れって云うんだろうなァ」
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街道一ばい、町一ばいに、測量は自分達の力で阻止させたんだ、闘いは勝利したんだという意気がみなぎり、太陽の下でピチビチとはねかえっているようだ。
宿舎の近隣の人々、地元反対同盟、団結小屋、全学連、炊事を担当してくれた婦団連の小母さんたち、町役場と宮崎町長、青木行動隊長……お世話になった人々にお別れの挨拶とお礼をして十日間の闘争のこの町を離れる。泥だらけの作業衣を脱いで背広に着換えたら、かえって本当の姿でないような妙な気さえしたのだった。
(当時の記述のままだが、「水直」→「垂直」など明瞭な誤字を一部訂正したり、「斗争」といった表記を「闘争」になおしたりした。)
※注1 この二年後、一九五八年に祐子と結婚。祐子は二〇〇五年六月、七十四歳で死去しました。
※注2 父は十年ほど前に死去いたしました。
※注3 祐子は中国・大連で幼少時を過ごし、一家は八路軍に徴用されて解放戦争に組み込まれ、戦後の北京大学に日本人として初めて入学、一九五三年に帰国しました。
※注4 山六老=元日本共産党関西地方委員会幹部の故山田六左衛門さん。
辺野古 HENOKO 2007 (Video.Google.com, 2007-01-29, 24分30秒)
辺野古から緊急情報
基地建設阻止 (おおかな通信)
ちゅら海をまもれ!沖縄・辺野古で座り込み中!
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by exod-US
| 2007-05-19 02:26
| イラク戦争と謀略テロ