2006年 07月 27日
1989年のルーマニア革命で処刑された独裁者チャウシェスクの二の舞を恐れて行方をくらましたか金正日?
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独裁者の末路は例外なく悲惨なものである.1989年の東欧民主化革命では,6月にポーランドで自由選挙が実施され,レフ・ワレサ率いる独立自主管理労働組合「連帯」が大勝利して政権を握った.8月には「ピクニック事件」と呼ばれる東ドイツ市民が大挙して亡命するという事件が発生し,10月にはハンガリー共産党が消滅した.11月9日には「ベルリンの壁」が市民の手によって倒され,12月までに相次いで東ドイツ,ブルガリア,チェコスロヴァキアの共産党政権が崩壊した.当時党書記長と国軍最高司令官を兼任する絶対権力者チャウシェスク大統領の独裁体制下にあって民主化とは無縁と思われたルーマニアでも,12月半ばには「ティミショアラの暴動」が発生し軍隊が鎮圧に出動,1000人とも言われる死傷者を出した.
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ティミショアラのトケシュ牧師は北部に強制退去させられる前に,ルーマニアの貧困とマジャール系住民(ハンガリー人)に対する抑圧について,国際社会に救援を求める発言をビデオに収録した.そのビデオテープは信者によって閉鎖されている国境を密かに越えてハンガリーに持ち出され,ハンガリー国営の「マジャール・テレビ」によって放映された.
同じような秘密ルートを6時間も歩いて,11月28日金メダリストの体操選手ナディア・コマネチ(当時28歳)がハンガリーに密かに脱出して,アメリカに亡命した.コマネチは(19歳のとき)現役を引退してからはチャウシェスクの次男ニクの執拗で強引な手段によって半ば愛人のような関係を強いられており,その生活に耐えられなくなったコマネチはアメリカ人の協力を得て決死の国外脱出を敢行したのだった.参照→Nadia Comaneci (コマネチ)1976年モントリオール五輪 白い妖精、独裁者に翻弄された人生
12月17日,ルーマニア政府はハンガリーとの国境を完全封鎖し翌日にはユーゴスラヴィア,ブルガリア,ソ連との全ての国境を閉鎖して外国人の入国を禁止した.治安部隊が発砲して多数の犠牲者が出たというティミショアラの情報は直ちに国外に流れ,VOA(アメリカの声)などによって全世界に伝えられた.ルーマニア国内では事件についての報道はなく首都ブカレストは表面的には平穏だったが,VOAなどを隠れて聞いている市民も多く,口コミで事件が伝わるのは時間の問題だった.チャウシェスクは暴徒鎮圧の指示を命じると,18日に予定通りイランへの公式訪問に旅立った.しかし,通常は外遊に同行する妻のエレナは国内にとどまり第1副首相として流動する情勢に対処した.ティミショアラで流血事件があったというニュースはまたたく間にルーマニア全土に広がり,アラド,シビウ.クルジュなどでも暴動が起きていよいよ情勢が緊迫してきたため,19日にはルーマニア全土に非常事態宣言が布告された※.※この記述(非常事態宣言の布告)は下記論文に拠るが,若干の疑問なしとしない.
20日にイランから帰国したチャウシェスクは国営ルーマニア放送のテレビを通じて国民に演説したが,ティミショアラの市民や犠牲者たちを「フーリガン,外国のスパイ」と決め付けたため国民の一層の怒りを掻き立てることになった.
21日首都ブカレストで開催された大規模な官製の集会は,逆にチャウシェスクを糾弾する大衆集会に転じる.チャウシェスクの演説が5分ほど過ぎたとき,集会の後方共和国宮殿のホテル・アテネパレス寄りのあたりで爆竹のような炸裂音が2度にわたって鳴り響いた.破裂音はバルコニーまで届き,テレビ中継用のカメラを乗せていたやぐらは前方のバルコニーのほうに押し寄せた群衆の圧力でぐらぐらと揺れ,中継映像が大きくぶれて視聴者を驚かせた.チャウシェスクは15分ほどで演説を切り上げ,エレナとともに建物のなかに姿を消した.
午後0時55分にはニコラエ・バルチェスク通りとギョルゲ・ギョルギュ=デジ通りが交差する大学広場に青黄赤の三色旗の中央に描かれたエンブレムを切り取った国旗を持った青年たちが集まり,口々に「独裁者を倒そう!」,「自由を!」,「非暴力!」と叫んだ.デモ鎮圧のため招集された党政治執行委員会でチャウシェスクはミレア国防相に対し,暴徒への発砲を命じたが,ミレア国防相は「国軍は人民を守る軍隊であり,人民には発砲できない」とこの命令を拒絶した.ミレア国防相はこの後チャウシェスクの秘密警察によって暗殺される.
▲Democracy Revolution of Rumania in 1989 (Wikipedia)
http://www.dailynk.com/english/read.php?cataId=nk02100&num=109
深夜12時を過ぎたときついに治安部隊が動いた.戦車が機銃を乱射しながら猛烈なスピードでデモ隊に向かって来たのだ.銃弾は広場にある建物,国立劇場やインターコンチネンタルホテルの壁に当たり,バリバリという音が耳をつんざいた.逃げ遅れた人はそのまま押し倒されて戦車や装甲車に巻き込まれた.この虐殺を実行したのは内務省秘密警察でチャウシェスクの弟のニコラエ・アンドルツァが校長を務めるバニャサ士官学校の学生で構成された特殊部隊だった.その後,大勢の警察官がトラックやバスで現われ大学広場に残っている者を拘束すると同時に,死体をトラックで運び去った.その後,放水車によって広場における虐殺の痕跡は洗い流されてしまった.外気温は零度以下だった.
その日(翌12月22日)は春を思わせる暖かな陽気となり,大勢の市民が再び中心部に続々と集まり,共和国広場は再び群衆で埋めつくされた.朝から広場上空を飛んでいたヘリコプターから,チャウシェスク体制を維持するようにという宣伝ビラが撒かれた.午前10時50分,国営ルーマニア放送は「憲法第75条第14項に基づき,ルーマニア大統領はルーマニア全土に非常事態を宣言する」と発表,続いて「ミレア国防相はルーマニアの独立と尊厳に対する裏切り行為を働き,自殺しているのが発見された」と報じた.
午前11時過ぎ,共産党本部のバルコニーにチャウシェスクが2人のボディガードを伴って姿を現わした.チャウシェスクは市民たちを説得しようとメガホンで何かを語り始めたが,群衆の叫び,ヘリの騒音などで声は広場には届かず,群衆は身の回りにあるものを手当たり次第,チャウシェスクに向かって投げはじめた.群衆の罵声を浴びながらチャウシェスクが建物のなかに消えると,広場には「目覚めよ、ルーマニア」の大合唱が湧き起こった.
その頃,大学広場の東にある通りに待機していた戦車から白旗が掲げられ,国軍兵士たちが市民に合流する意思を明らかにした.ミレア国防相の死後,ヴィクトル・スタンレスク将軍を責任者とし,エフティメスク将軍が副責任者を務める作戦指揮グループに軍の指揮権が与えられていたことが,空軍のギョルゲ・ルス司令官の証言で明らかになっている.国軍の態度の変化を知った多数の市民や労働者たちは郊外からも続々と市内中心部に押しかけていた.
革命勢力による攻勢が大統領官邸(共産党本部)※まで及びそうになると,大統領夫妻は大統領府からヘリコプターでの脱出を試みた.ブカレスト北東60kmの湖畔にあるスナゴウ大統領宮殿に逃げ延びたチャウシェスクは宮殿執務室の直通電話回線で各地の情勢把握に務める一方,エレナは緊急事態を覚悟して宮殿内の金庫から宝石や貴重品をかき集めた.チャウシェスク夫妻,秘密警察のニャゴエ大佐とボディガードの4人を乗せた白い機体のヘリ(操縦士はマルツァン中佐他2名)は再び飛び立って,ブカレスト北西の地下秘密飛行場があるボテニィに向かったが,国軍のレーダーに捕捉されることを恐れてボテニィ近くの野原に緊急着陸した.※wikiでは「大統領官邸」としているが,下記論文では「共産党本部」となっている.
ボテニィからは大統領専用機のボーイングでリビアあたりまで逃げるつもりだったが,逃げ切れず秘密警察本部に潜んでいるところを国軍トゥルゴヴィシュテ駐屯地の連隊兵士らによって保護され,翌23日には基地内の監獄に移送された.チャウシェスク夫妻は拘束されている間も権力を握っているかのように振る舞っていたが,食事は兵士たちと同じサラミと塩入りチーズとパンで,食事担当のダビジャ大尉が「軍の正規の分量と同じものであります」と説明すると大統領の妻エレナは「最高司令官によくもそんな口が利けるわね」と怒鳴ったという.
12月25日には非公開の臨時軍事法廷が開かれ,55分という超スピード審理で,6万人の大量虐殺,国家権力の破壊,国民経済の破壊,そして10億ドルの不正蓄財の罪に問われたチャウシェスク大統領とその妻エレナに死刑の宣告が下された.北朝鮮の独裁者が裁判を受けるときの参考として,ここに判決文の一部を紹介しておくのは意義深いことである.
「被告人は自らの犯罪的活動を成就させるため、政治的権力を独占し、国家の全機能を自らの卑しい利益充足のために屈指し※、ルーマニア国民を抑圧した。かくして、被告人は計画的な飢餓政策を採用し、国民の基本的生活条件を破壊した。無方途な計画の効果を高めるため、両独裁者は信じられないほどの巨額の金銭(レイおよび借款などによる外貨資金)と国民の資産を湯水のごとく蕩尽し、ルーマニア国民の生活水準をヨーロッパにおける最低水準 (飢え、暗闇の生活、暖房のない家庭)にまで追いやった。愚かにして、しかも俗物そのものの2人の暴君は、多くの邸宅をあたかも自分らの財産であるかのように飾り立て、国民の誇るべき世襲財産である高価な美術品、貴重な書籍類を持ち出し、邸宅に並べ立てた。ルーマニア国民よりの強奪だけで満足せず、被告人は、国家および諸企業、また輸出入業務、その他の活動より発生した収益たる交換可能外貨の一部を、自己または他人名義で預託した」
写真↑はブカレストのシャンゼリーゼと呼ばれる通り:→ROMANIA~PELICAN NOTE
チャウシェスクが金日成を表敬訪問後ピョンヤンの町並みをコピーして作ったものだという.
※屈指(くっし)と言えばone of the best と言う意味になるが,「屈指する」という動詞形ではあまり常用されていないと思う.多分「人指し指をカギ型に曲げる」つまり,「盗む」という意味で使っているものと解釈して,原文(下記論文参照)に従うことにした.
死刑判決が下されたチャウシェスク夫妻は,ブカレストから来た刑吏4人に後ろ手に縛られて,監獄内の空き地に連れ出された.処刑執行を担当する将校は,警備していた兵士のなかから5人を銃殺隊として選抜した.執行監督官である将校が「銃殺隊,前へ」と叫び,「撃て」と命令した.すると,5人の銃殺隊だけではなく警備兵全員の発射音が轟いた.チャウシェスク夫妻の遺体からは100発以上の銃弾が見つかったという.
この軍事法廷の裁判と死刑執行の様子は自由ルーマニア放送(前の国営ルーマニア放送)によって撮影された.その日の午後8時半,自由ルーマニア放送は「チャウシェスク前大統領とエレナ前第1副首相が軍事法廷で死刑を宣告され,処刑された」というアナウンサーの言葉だけを伝えた.それから5時間後の深夜1時40分,チャウシェスク夫妻が法廷にいる映像が放映されたが,処刑シーンは流されなかった.処刑されたチャウシェスク夫妻の遺体の映像が自由ルーマニア放送で放映されたのは,半日後の12月26日午後1時のことであり,配信を受けたフランスのテレビ局によって翌27日,全世界に放映された.
このビデオをおよそこの地球上でもっとも衝撃を持って視聴したのが金日成主席と金正日総書記父子であったことはほとんど疑う余地がない.「ニューズウイーク」が伝えるところによると,当時,金総書記はチャウシェスクが処刑される様子を撮影したビデオテープを一週間にわたって側近らに見せて,「われわれも人民によって殺されかねない」と述べたという.チャウシェスク(1918-1989)は金日成(1912-1994)より6歳若く,金日成より5年早く死亡した.金正日はチャウシェスクが公開処刑されたとき48歳の壮年である.
1971年に北朝鮮を訪問して以来,チャウシェスクと金親子の間柄は際立って親密なものであった.何から何まで瓜二つと言ってもよいほどに似ているところが怖い.軍・党・政を掌握した絶対権力者に対する偶像崇拝の強制,秘密警察を使った抑圧的政治と容赦ない粛清,贅沢に対する飽くなき欲望,その一方で経済政策的失敗の域を超えた大量の餓死者の存在,要職を家族で固めるクローニズム(縁故主義)などなど...
よく見ろ。チャウシェスクもああなった。東欧社会主義国家も滅びた姿を見たではないか。この体制が崩壊すれば、おまえたち幹部からまっ先にペクソン(庶民)たちによって絞首刑にされるのだ。だから気合いを入れろ。いまこそ気合いを入れて人民の統制と管理に本腰を入れろ。※出典→金正日 隠された戦争(萩原遼,文藝春秋),参照記事
※北朝鮮人民は核心階層,動揺階層,敵対階層など3階層51の部類に区分され,異なる処遇を受けることが政治的に決定されている.核心階層は党幹部・軍人などの少数特権階級であり,動揺階層は中間的かつ裁量的な待遇を受け,それ以下の敵対階層には抑圧的監視政策を実施する.北朝鮮では光ファイバ幹線網が整備され電子政府化がかなり進んでいるようであるが,2003年12月にはすべての人民にIDカードの携帯が義務付けられた.これにより高速な「出身成分分析」が可能になった.→North Korea Today Newsblog
北朝鮮のレジームチェンジが有り得るとすれば,それは外国からの干渉によってではなく北朝鮮人民自らの手によって行われなくてはならない.そしてまたそれは,南北統一という展望のもとでしか実現され得ず,またその実現は不可避的に南北統一の水路を切り開くものとなるだろう.この意味で北朝鮮の独裁者を倒す闘いは北朝鮮人民と韓国民衆の肉親的連帯の上で始めて達成可能な共同の事業である.キム・ジョン・イルの不在は「独裁者の恐怖」を如実に示す表象であり,彼が事実上すでに孤独な逃亡の路を辿りつつあることをゆくりなくも暴露するものである.独裁者の秘密警察を恐れてはならない.実際,上記の物語でチャウシェスクとその妻がほうほうの体で秘密警察(セクリタテア)本部に逃げ込んだとき,独裁者にもっとも忠誠であるべき秘密警察職員はすべて散り散じて建物の内部は空っぽだったのである!
【編者】このテキストのほとんどの記述はジャーナリストの惠谷治氏が執筆された論文『ルーマニア革命は「市民蜂起に便乗した宮廷クーデター」だった』に典拠している.多少の編集を行ってはいるが,ほとんど原文のまま抽出したものと考えて頂いてよい.また,この論文は≪救う会全国協議会≫のサイトに掲載されたものであることをお断りしておく.
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北朝鮮国家元首の金正日総書記はこの国家存亡の秋にどこに雲隠れしたのか?
テポドン騒動が第二次朝鮮戦争に発展しない5つの理由
【特報】北朝鮮が金正日(キム・ジョンイル)国防委員長名義で全軍と住民に「戦時動員令」を下したと18日伝えられた。(朝鮮日報,2006,07,19)「戦時動員令」は全住民を巻き込む(戦時予備段階の)非常事態宣言である.現在,北朝鮮全域では国家動員総局管長の下,住民の移動が統制され,軍が戦闘食糧を緊急調達するなど緊迫した動きが観測されている.また労農赤衛隊と赤い青年近衛隊のような民間軍事組織が動員状態されていることが確認された.「戦時動員令」が発令されたのは国連の制裁決議が出される4時間前.前方陣地配置のような戦争準備は行われていないと韓国情報当局は判断している.むしろ国内の緊張強化を目的とする内政的側面が大きいように思われる.一部には「暴動勃発」の風説もある.参照→http://knty.seesaa.net/article/21057547.html#trackback
To be continued...
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ティミショアラのトケシュ牧師は北部に強制退去させられる前に,ルーマニアの貧困とマジャール系住民(ハンガリー人)に対する抑圧について,国際社会に救援を求める発言をビデオに収録した.そのビデオテープは信者によって閉鎖されている国境を密かに越えてハンガリーに持ち出され,ハンガリー国営の「マジャール・テレビ」によって放映された.
同じような秘密ルートを6時間も歩いて,11月28日金メダリストの体操選手ナディア・コマネチ(当時28歳)がハンガリーに密かに脱出して,アメリカに亡命した.コマネチは(19歳のとき)現役を引退してからはチャウシェスクの次男ニクの執拗で強引な手段によって半ば愛人のような関係を強いられており,その生活に耐えられなくなったコマネチはアメリカ人の協力を得て決死の国外脱出を敢行したのだった.参照→Nadia Comaneci (コマネチ)1976年モントリオール五輪 白い妖精、独裁者に翻弄された人生
12月17日,ルーマニア政府はハンガリーとの国境を完全封鎖し翌日にはユーゴスラヴィア,ブルガリア,ソ連との全ての国境を閉鎖して外国人の入国を禁止した.治安部隊が発砲して多数の犠牲者が出たというティミショアラの情報は直ちに国外に流れ,VOA(アメリカの声)などによって全世界に伝えられた.ルーマニア国内では事件についての報道はなく首都ブカレストは表面的には平穏だったが,VOAなどを隠れて聞いている市民も多く,口コミで事件が伝わるのは時間の問題だった.チャウシェスクは暴徒鎮圧の指示を命じると,18日に予定通りイランへの公式訪問に旅立った.しかし,通常は外遊に同行する妻のエレナは国内にとどまり第1副首相として流動する情勢に対処した.ティミショアラで流血事件があったというニュースはまたたく間にルーマニア全土に広がり,アラド,シビウ.クルジュなどでも暴動が起きていよいよ情勢が緊迫してきたため,19日にはルーマニア全土に非常事態宣言が布告された※.※この記述(非常事態宣言の布告)は下記論文に拠るが,若干の疑問なしとしない.
20日にイランから帰国したチャウシェスクは国営ルーマニア放送のテレビを通じて国民に演説したが,ティミショアラの市民や犠牲者たちを「フーリガン,外国のスパイ」と決め付けたため国民の一層の怒りを掻き立てることになった.
21日首都ブカレストで開催された大規模な官製の集会は,逆にチャウシェスクを糾弾する大衆集会に転じる.チャウシェスクの演説が5分ほど過ぎたとき,集会の後方共和国宮殿のホテル・アテネパレス寄りのあたりで爆竹のような炸裂音が2度にわたって鳴り響いた.破裂音はバルコニーまで届き,テレビ中継用のカメラを乗せていたやぐらは前方のバルコニーのほうに押し寄せた群衆の圧力でぐらぐらと揺れ,中継映像が大きくぶれて視聴者を驚かせた.チャウシェスクは15分ほどで演説を切り上げ,エレナとともに建物のなかに姿を消した.
午後0時55分にはニコラエ・バルチェスク通りとギョルゲ・ギョルギュ=デジ通りが交差する大学広場に青黄赤の三色旗の中央に描かれたエンブレムを切り取った国旗を持った青年たちが集まり,口々に「独裁者を倒そう!」,「自由を!」,「非暴力!」と叫んだ.デモ鎮圧のため招集された党政治執行委員会でチャウシェスクはミレア国防相に対し,暴徒への発砲を命じたが,ミレア国防相は「国軍は人民を守る軍隊であり,人民には発砲できない」とこの命令を拒絶した.ミレア国防相はこの後チャウシェスクの秘密警察によって暗殺される.
http://www.dailynk.com/english/read.php?cataId=nk02100&num=109
深夜12時を過ぎたときついに治安部隊が動いた.戦車が機銃を乱射しながら猛烈なスピードでデモ隊に向かって来たのだ.銃弾は広場にある建物,国立劇場やインターコンチネンタルホテルの壁に当たり,バリバリという音が耳をつんざいた.逃げ遅れた人はそのまま押し倒されて戦車や装甲車に巻き込まれた.この虐殺を実行したのは内務省秘密警察でチャウシェスクの弟のニコラエ・アンドルツァが校長を務めるバニャサ士官学校の学生で構成された特殊部隊だった.その後,大勢の警察官がトラックやバスで現われ大学広場に残っている者を拘束すると同時に,死体をトラックで運び去った.その後,放水車によって広場における虐殺の痕跡は洗い流されてしまった.外気温は零度以下だった.
その日(翌12月22日)は春を思わせる暖かな陽気となり,大勢の市民が再び中心部に続々と集まり,共和国広場は再び群衆で埋めつくされた.朝から広場上空を飛んでいたヘリコプターから,チャウシェスク体制を維持するようにという宣伝ビラが撒かれた.午前10時50分,国営ルーマニア放送は「憲法第75条第14項に基づき,ルーマニア大統領はルーマニア全土に非常事態を宣言する」と発表,続いて「ミレア国防相はルーマニアの独立と尊厳に対する裏切り行為を働き,自殺しているのが発見された」と報じた.
午前11時過ぎ,共産党本部のバルコニーにチャウシェスクが2人のボディガードを伴って姿を現わした.チャウシェスクは市民たちを説得しようとメガホンで何かを語り始めたが,群衆の叫び,ヘリの騒音などで声は広場には届かず,群衆は身の回りにあるものを手当たり次第,チャウシェスクに向かって投げはじめた.群衆の罵声を浴びながらチャウシェスクが建物のなかに消えると,広場には「目覚めよ、ルーマニア」の大合唱が湧き起こった.
その頃,大学広場の東にある通りに待機していた戦車から白旗が掲げられ,国軍兵士たちが市民に合流する意思を明らかにした.ミレア国防相の死後,ヴィクトル・スタンレスク将軍を責任者とし,エフティメスク将軍が副責任者を務める作戦指揮グループに軍の指揮権が与えられていたことが,空軍のギョルゲ・ルス司令官の証言で明らかになっている.国軍の態度の変化を知った多数の市民や労働者たちは郊外からも続々と市内中心部に押しかけていた.
革命勢力による攻勢が大統領官邸(共産党本部)※まで及びそうになると,大統領夫妻は大統領府からヘリコプターでの脱出を試みた.ブカレスト北東60kmの湖畔にあるスナゴウ大統領宮殿に逃げ延びたチャウシェスクは宮殿執務室の直通電話回線で各地の情勢把握に務める一方,エレナは緊急事態を覚悟して宮殿内の金庫から宝石や貴重品をかき集めた.チャウシェスク夫妻,秘密警察のニャゴエ大佐とボディガードの4人を乗せた白い機体のヘリ(操縦士はマルツァン中佐他2名)は再び飛び立って,ブカレスト北西の地下秘密飛行場があるボテニィに向かったが,国軍のレーダーに捕捉されることを恐れてボテニィ近くの野原に緊急着陸した.※wikiでは「大統領官邸」としているが,下記論文では「共産党本部」となっている.
ボテニィからは大統領専用機のボーイングでリビアあたりまで逃げるつもりだったが,逃げ切れず秘密警察本部に潜んでいるところを国軍トゥルゴヴィシュテ駐屯地の連隊兵士らによって保護され,翌23日には基地内の監獄に移送された.チャウシェスク夫妻は拘束されている間も権力を握っているかのように振る舞っていたが,食事は兵士たちと同じサラミと塩入りチーズとパンで,食事担当のダビジャ大尉が「軍の正規の分量と同じものであります」と説明すると大統領の妻エレナは「最高司令官によくもそんな口が利けるわね」と怒鳴ったという.
12月25日には非公開の臨時軍事法廷が開かれ,55分という超スピード審理で,6万人の大量虐殺,国家権力の破壊,国民経済の破壊,そして10億ドルの不正蓄財の罪に問われたチャウシェスク大統領とその妻エレナに死刑の宣告が下された.北朝鮮の独裁者が裁判を受けるときの参考として,ここに判決文の一部を紹介しておくのは意義深いことである.
「被告人は自らの犯罪的活動を成就させるため、政治的権力を独占し、国家の全機能を自らの卑しい利益充足のために屈指し※、ルーマニア国民を抑圧した。かくして、被告人は計画的な飢餓政策を採用し、国民の基本的生活条件を破壊した。無方途な計画の効果を高めるため、両独裁者は信じられないほどの巨額の金銭(レイおよび借款などによる外貨資金)と国民の資産を湯水のごとく蕩尽し、ルーマニア国民の生活水準をヨーロッパにおける最低水準 (飢え、暗闇の生活、暖房のない家庭)にまで追いやった。愚かにして、しかも俗物そのものの2人の暴君は、多くの邸宅をあたかも自分らの財産であるかのように飾り立て、国民の誇るべき世襲財産である高価な美術品、貴重な書籍類を持ち出し、邸宅に並べ立てた。ルーマニア国民よりの強奪だけで満足せず、被告人は、国家および諸企業、また輸出入業務、その他の活動より発生した収益たる交換可能外貨の一部を、自己または他人名義で預託した」
チャウシェスクが金日成を表敬訪問後ピョンヤンの町並みをコピーして作ったものだという.
※屈指(くっし)と言えばone of the best と言う意味になるが,「屈指する」という動詞形ではあまり常用されていないと思う.多分「人指し指をカギ型に曲げる」つまり,「盗む」という意味で使っているものと解釈して,原文(下記論文参照)に従うことにした.
死刑判決が下されたチャウシェスク夫妻は,ブカレストから来た刑吏4人に後ろ手に縛られて,監獄内の空き地に連れ出された.処刑執行を担当する将校は,警備していた兵士のなかから5人を銃殺隊として選抜した.執行監督官である将校が「銃殺隊,前へ」と叫び,「撃て」と命令した.すると,5人の銃殺隊だけではなく警備兵全員の発射音が轟いた.チャウシェスク夫妻の遺体からは100発以上の銃弾が見つかったという.
この軍事法廷の裁判と死刑執行の様子は自由ルーマニア放送(前の国営ルーマニア放送)によって撮影された.その日の午後8時半,自由ルーマニア放送は「チャウシェスク前大統領とエレナ前第1副首相が軍事法廷で死刑を宣告され,処刑された」というアナウンサーの言葉だけを伝えた.それから5時間後の深夜1時40分,チャウシェスク夫妻が法廷にいる映像が放映されたが,処刑シーンは流されなかった.処刑されたチャウシェスク夫妻の遺体の映像が自由ルーマニア放送で放映されたのは,半日後の12月26日午後1時のことであり,配信を受けたフランスのテレビ局によって翌27日,全世界に放映された.
このビデオをおよそこの地球上でもっとも衝撃を持って視聴したのが金日成主席と金正日総書記父子であったことはほとんど疑う余地がない.「ニューズウイーク」が伝えるところによると,当時,金総書記はチャウシェスクが処刑される様子を撮影したビデオテープを一週間にわたって側近らに見せて,「われわれも人民によって殺されかねない」と述べたという.チャウシェスク(1918-1989)は金日成(1912-1994)より6歳若く,金日成より5年早く死亡した.金正日はチャウシェスクが公開処刑されたとき48歳の壮年である.
1971年に北朝鮮を訪問して以来,チャウシェスクと金親子の間柄は際立って親密なものであった.何から何まで瓜二つと言ってもよいほどに似ているところが怖い.軍・党・政を掌握した絶対権力者に対する偶像崇拝の強制,秘密警察を使った抑圧的政治と容赦ない粛清,贅沢に対する飽くなき欲望,その一方で経済政策的失敗の域を超えた大量の餓死者の存在,要職を家族で固めるクローニズム(縁故主義)などなど...
よく見ろ。チャウシェスクもああなった。東欧社会主義国家も滅びた姿を見たではないか。この体制が崩壊すれば、おまえたち幹部からまっ先にペクソン(庶民)たちによって絞首刑にされるのだ。だから気合いを入れろ。いまこそ気合いを入れて人民の統制と管理に本腰を入れろ。※出典→金正日 隠された戦争(萩原遼,文藝春秋),参照記事
北朝鮮のレジームチェンジが有り得るとすれば,それは外国からの干渉によってではなく北朝鮮人民自らの手によって行われなくてはならない.そしてまたそれは,南北統一という展望のもとでしか実現され得ず,またその実現は不可避的に南北統一の水路を切り開くものとなるだろう.この意味で北朝鮮の独裁者を倒す闘いは北朝鮮人民と韓国民衆の肉親的連帯の上で始めて達成可能な共同の事業である.キム・ジョン・イルの不在は「独裁者の恐怖」を如実に示す表象であり,彼が事実上すでに孤独な逃亡の路を辿りつつあることをゆくりなくも暴露するものである.独裁者の秘密警察を恐れてはならない.実際,上記の物語でチャウシェスクとその妻がほうほうの体で秘密警察(セクリタテア)本部に逃げ込んだとき,独裁者にもっとも忠誠であるべき秘密警察職員はすべて散り散じて建物の内部は空っぽだったのである!
【編者】このテキストのほとんどの記述はジャーナリストの惠谷治氏が執筆された論文『ルーマニア革命は「市民蜂起に便乗した宮廷クーデター」だった』に典拠している.多少の編集を行ってはいるが,ほとんど原文のまま抽出したものと考えて頂いてよい.また,この論文は≪救う会全国協議会≫のサイトに掲載されたものであることをお断りしておく.
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北朝鮮国家元首の金正日総書記はこの国家存亡の秋にどこに雲隠れしたのか?
テポドン騒動が第二次朝鮮戦争に発展しない5つの理由
【特報】北朝鮮が金正日(キム・ジョンイル)国防委員長名義で全軍と住民に「戦時動員令」を下したと18日伝えられた。(朝鮮日報,2006,07,19)「戦時動員令」は全住民を巻き込む(戦時予備段階の)非常事態宣言である.現在,北朝鮮全域では国家動員総局管長の下,住民の移動が統制され,軍が戦闘食糧を緊急調達するなど緊迫した動きが観測されている.また労農赤衛隊と赤い青年近衛隊のような民間軍事組織が動員状態されていることが確認された.「戦時動員令」が発令されたのは国連の制裁決議が出される4時間前.前方陣地配置のような戦争準備は行われていないと韓国情報当局は判断している.むしろ国内の緊張強化を目的とする内政的側面が大きいように思われる.一部には「暴動勃発」の風説もある.参照→http://knty.seesaa.net/article/21057547.html#trackback
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| 2006-07-27 00:01
| 金正日ミサイル乱射事件