2005年 10月 23日
日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや (国際派日本人の情報ファイル)
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このブログのスローガンは《脱米自立》である.これはもちろん,福沢諭吉が唱えた《脱亜入欧》のもじりである.明治維新政府は,まずちょんまげを切り落とし西欧の進んだ文化を積極的に取り入れてアジアの後進性からの脱却を図り,欧州列強の一員に加わることを目指して富国強兵の政策を進めた.日本は西欧諸国の植民地主義を模倣して大陸への進出を試みたが,大国アメリカの利害と正面から衝突しその野望は挫かれた.戦後日本は一転軍事膨張路線を捨てて産業経営に専念し,見る間に驚異的な経済成長を果たしてついに世界最大の債権国の地位を平和的手段のみによって獲得するが,同時期に世界最大の債務国に転落したアメリカの仕掛けた日米経済戦争(第二次太平洋戦争)によって第2の敗戦,バブル崩壊という大破局を迎える.
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郵政民営化によって郵政資金350兆円の国民資産売却の準備を終えた小泉総理は,11月16日に大統領ブッシュを京都迎賓館の祝賀の宴に招き,不安定な弧と呼ばれる東シナ海から中東までの全域をカバーする米陸軍第一司令部の首都無血入城受け入れを約束することによって,日本全土の帝国属州化を決定付け,自衛隊をアメリカ帝国の軍事世界戦略に完全な水準でインストールしようとしている.だが,イラクでは米英豪の環太平洋諸国を主軸とする少国籍軍はイラク国民の英雄的な抵抗運動に遭遇して泥沼化した占領地から這い出すことを余儀なくされ,なし崩し的な撤兵が進んでいるのを見るがよい.暴力と虚偽は双子の兄弟であるが,戦争と謀略もそうだ.イラク戦争は大統領のウソから始まった大義なき戦争である.
帝国とは略奪と寄生の一つの形態である.寄生者のおこぼれに預かる少数の特権階級を除いては,国民の大多数にとっては桎梏以外のなにものでもない.ハリケーン・カトリーナは日本が模範とする淫売婦アメリカのスカートを捲り上げて,その惨たる実情を白日のもとに曝け出した.《脱米自立》は決して平坦な道ではない.しかしそれが「単純に不可能」と結論するのは早急に過ぎる.≪国際派日本人の情報ファイル≫の丸山公紀氏は「今日的状況を打開させるのは歴史を甦らせる力」であると力強く言明された.その声に耳を傾けてみよう.おそらく読者はいつか,甦った聖徳太子の声が氏に代わって語り始めるのを聴かれるであろう.
このテキストは如何様にも読まれることができるが,私自身は文中の覇権国「隋」を「米」と置き換えて読んでみた.このような解釈はもちろん不当なものではないし,もし聖徳太子がここに臨席していれば必ずそのように語ったであろうことに疑いはない.いや実際,日本列島から見たとき,もっとも遅く「日没する処」はアメリカである.イラク戦争は一面では通貨戦争として理解される.第2次太平洋戦争がある種の金融戦争(謀略)だったとすれば,第3次太平洋戦争は紛れもなく通貨戦争として戦われることになるだろう.長い間(日本繁栄期のシンボルとして)日本紙幣の顔であった聖徳太子ならどのようなアドバイスをなされるか,聞けるものなら聞いてみたいものだ.(馬場英治,2005-10-23 19:53:00)
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今回は、テーマが「日出づる国・日本-今、甦る聖徳太子」であったが、単に飛鳥時代という歴史の断面を学ぶだけでなく、現代の国家的危機と同様に当時の危機的時代の中にあって、太子がどのような祈りを持ち、何をなしてきたのか、そして今の世に学ぶことは何かについて研修できた。研修は日本協議会・日本青年協議会の関係者の他、中西輝政先生(京都大学教授)、占部賢志先生(福岡県公立高校教諭)の特別講義もあり、実に盛りだくさんであった。
因みに信貴山は太子がこの山に参詣してから後に国家的人生が変わったことから太子自らが「信ずべき尊い山」と名付けられるほど太子と縁が深く、世俗の喧騒から心静かな時間を過ごすことができるとともに、斑鳩から飛鳥への道すがらに位置する達磨寺(推古21年、太子が片岡山で飢者に衣裳を賜り、歌を読まれた場所)、そして法隆寺、中宮寺と野外研修をする中で、太子の動乱痛苦の息遣いと佛教を通じてこの国を救済されようとした気迫を十分感得することかできた。
印象に残ったポイントを一つ二つ紹介してみる。
言うまでもなく太子の時代は国際環境的には隋帝国が出現し、東アジアだけでなく当時、唯一の超大国として高句麗へもその勢力を広げようとしており、その意味では新羅、百済が隋になびけば我が国は隋の属国となるしかないという、いわゆる冊封体制にあり、国内的には蘇我氏が財務・情報・軍事を掌握、仏教による政治的支配を企図、ついには崇峻天皇を弑逆するまでの事件を引き起こすほどの強大な勢力を持つに至っていた。その中で、冠位十二階、憲法十七条を制定し、国内秩序として、部族間の闘争から統一への動きをつくり、天皇を中心とする上下の関係を整えていかれたが、何と言っても607年(推古15)、小野妹子が遣隋使として派遣され、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」との文書を隋の煬帝に手渡し、従来の中華主義からの独立を宣言し、大陸文明を摂取した隋との対等外交、いわば独立宣言を表明したことは非常に重要である。
小生が始めて知ったのは、通常、太子はロマンチックな外交観をもって隋からの独立を宣言したように受取られることが多いが、決してそうではなく、したたかな外交戦略を持ち、必ず対等を宣言した信書を持っていけば認めざるをえないという透徹した時代を見る慧眼を持っていたことだった。即ち、598年には隋は第一次高句麗遠征を開始し、その遠征に完敗した直後の600年にはすぐに新羅征討軍を派遣し、新羅に朝貢を約し、続けて遣隋使を派遣するとともに、煬帝が第2次高句麗遠征の準備に入り、必然的に新羅、百済との関係を良好に保たなければならない時期の607年に小野妹子を派遣したのであった。当時、隋と対等外交を結ぶことは、力関係からして考えられなかったことであるが、様々なしかも正確な情報をキャッチすることができ、正しい判断を下すことができたのである。このことは我が国の歴史上でも輝かしい外交勝利でもあったように思う。
それでは、太子が何故このような自信のある正しい判断を下すことができたかということについても大いに学んだ。蘇我氏のように単に外来の仏教を功利的に利用したようにではなく、部族間の対立の中で、国家・国民を救うために仏典解釈については中国の仏典解釈書を学ばれながらも、太子が生きて来られた動乱痛苦のご体験を通して自分の思想に行動が関わっていくかどうかの内心を見つめながら、独自の解釈、見解を表明され、日本人としての仏教的価値観を確立したことが大きかった。しかもその仏教の解釈に当たっては、決して太子お一人ではなく、あの法隆寺大講堂において高句麗僧の慧慈や蘇我氏、多くの僧によって研究を続けて結果、多くの人たちによって仏教的価値観を共有したいという願いが和の精神として、さらに内面を発展させていく力となったが故に、現実の世界で隋と相対した場合にどのような姿勢をとるべきなのか、既に自覚されたのである。
換言すれば、国家・国民の精神が統合されることによって、隋という大国に対して真っ向から臨むことができたのである。
翻って今日、米国にも中国に対してもしたたかな外交戦略を持っていないこと、そしてそのしたたかさを自ずから包含する日本人としての歴史的価値観を把持していないことが一番大きな問題であることも浮かび上がってくる。我々が太子の古への時代を過去の事実と見るだけでは歴史に学ぶことにならない。そうではなく今という時代も飛鳥の時代も国家的危機の構造はあまり変わっていないということを深く捉え、現代の国家・国民の和の精神であるところの日本の誇りに立脚した歴史的価値観の共有によるエネルギーこそ持つことであろう。
聖徳太子が甦るかどうかは、一にかかって我々日本人の心持ちにかかっていることを痛感した次第である。
この合宿に参加した意義は大きく、歴史を甦らせる力こそ、国家再生のエネルギー足りうることを自覚した時間となった。是非、感心のおありの方はご一報下さい。
日本会議大阪のホームページ
http://osaka.nipponkaigi.com/
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郵政民営化によって郵政資金350兆円の国民資産売却の準備を終えた小泉総理は,11月16日に大統領ブッシュを京都迎賓館の祝賀の宴に招き,不安定な弧と呼ばれる東シナ海から中東までの全域をカバーする米陸軍第一司令部の首都無血入城受け入れを約束することによって,日本全土の帝国属州化を決定付け,自衛隊をアメリカ帝国の軍事世界戦略に完全な水準でインストールしようとしている.だが,イラクでは米英豪の環太平洋諸国を主軸とする少国籍軍はイラク国民の英雄的な抵抗運動に遭遇して泥沼化した占領地から這い出すことを余儀なくされ,なし崩し的な撤兵が進んでいるのを見るがよい.暴力と虚偽は双子の兄弟であるが,戦争と謀略もそうだ.イラク戦争は大統領のウソから始まった大義なき戦争である.
帝国とは略奪と寄生の一つの形態である.寄生者のおこぼれに預かる少数の特権階級を除いては,国民の大多数にとっては桎梏以外のなにものでもない.ハリケーン・カトリーナは日本が模範とする淫売婦アメリカのスカートを捲り上げて,その惨たる実情を白日のもとに曝け出した.《脱米自立》は決して平坦な道ではない.しかしそれが「単純に不可能」と結論するのは早急に過ぎる.≪国際派日本人の情報ファイル≫の丸山公紀氏は「今日的状況を打開させるのは歴史を甦らせる力」であると力強く言明された.その声に耳を傾けてみよう.おそらく読者はいつか,甦った聖徳太子の声が氏に代わって語り始めるのを聴かれるであろう.
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今日的状況を打開させるのは歴史を甦らせる力
~奈良県信貴山、法隆寺で聖徳太子に学ぶ~
丸山公紀
■ No.1049 ■ H17.10.21 ■ 8,096部 ■■■■■■■■■■■■
今回は、テーマが「日出づる国・日本-今、甦る聖徳太子」であったが、単に飛鳥時代という歴史の断面を学ぶだけでなく、現代の国家的危機と同様に当時の危機的時代の中にあって、太子がどのような祈りを持ち、何をなしてきたのか、そして今の世に学ぶことは何かについて研修できた。研修は日本協議会・日本青年協議会の関係者の他、中西輝政先生(京都大学教授)、占部賢志先生(福岡県公立高校教諭)の特別講義もあり、実に盛りだくさんであった。
因みに信貴山は太子がこの山に参詣してから後に国家的人生が変わったことから太子自らが「信ずべき尊い山」と名付けられるほど太子と縁が深く、世俗の喧騒から心静かな時間を過ごすことができるとともに、斑鳩から飛鳥への道すがらに位置する達磨寺(推古21年、太子が片岡山で飢者に衣裳を賜り、歌を読まれた場所)、そして法隆寺、中宮寺と野外研修をする中で、太子の動乱痛苦の息遣いと佛教を通じてこの国を救済されようとした気迫を十分感得することかできた。
印象に残ったポイントを一つ二つ紹介してみる。
言うまでもなく太子の時代は国際環境的には隋帝国が出現し、東アジアだけでなく当時、唯一の超大国として高句麗へもその勢力を広げようとしており、その意味では新羅、百済が隋になびけば我が国は隋の属国となるしかないという、いわゆる冊封体制にあり、国内的には蘇我氏が財務・情報・軍事を掌握、仏教による政治的支配を企図、ついには崇峻天皇を弑逆するまでの事件を引き起こすほどの強大な勢力を持つに至っていた。その中で、冠位十二階、憲法十七条を制定し、国内秩序として、部族間の闘争から統一への動きをつくり、天皇を中心とする上下の関係を整えていかれたが、何と言っても607年(推古15)、小野妹子が遣隋使として派遣され、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」との文書を隋の煬帝に手渡し、従来の中華主義からの独立を宣言し、大陸文明を摂取した隋との対等外交、いわば独立宣言を表明したことは非常に重要である。
小生が始めて知ったのは、通常、太子はロマンチックな外交観をもって隋からの独立を宣言したように受取られることが多いが、決してそうではなく、したたかな外交戦略を持ち、必ず対等を宣言した信書を持っていけば認めざるをえないという透徹した時代を見る慧眼を持っていたことだった。即ち、598年には隋は第一次高句麗遠征を開始し、その遠征に完敗した直後の600年にはすぐに新羅征討軍を派遣し、新羅に朝貢を約し、続けて遣隋使を派遣するとともに、煬帝が第2次高句麗遠征の準備に入り、必然的に新羅、百済との関係を良好に保たなければならない時期の607年に小野妹子を派遣したのであった。当時、隋と対等外交を結ぶことは、力関係からして考えられなかったことであるが、様々なしかも正確な情報をキャッチすることができ、正しい判断を下すことができたのである。このことは我が国の歴史上でも輝かしい外交勝利でもあったように思う。
それでは、太子が何故このような自信のある正しい判断を下すことができたかということについても大いに学んだ。蘇我氏のように単に外来の仏教を功利的に利用したようにではなく、部族間の対立の中で、国家・国民を救うために仏典解釈については中国の仏典解釈書を学ばれながらも、太子が生きて来られた動乱痛苦のご体験を通して自分の思想に行動が関わっていくかどうかの内心を見つめながら、独自の解釈、見解を表明され、日本人としての仏教的価値観を確立したことが大きかった。しかもその仏教の解釈に当たっては、決して太子お一人ではなく、あの法隆寺大講堂において高句麗僧の慧慈や蘇我氏、多くの僧によって研究を続けて結果、多くの人たちによって仏教的価値観を共有したいという願いが和の精神として、さらに内面を発展させていく力となったが故に、現実の世界で隋と相対した場合にどのような姿勢をとるべきなのか、既に自覚されたのである。
換言すれば、国家・国民の精神が統合されることによって、隋という大国に対して真っ向から臨むことができたのである。
翻って今日、米国にも中国に対してもしたたかな外交戦略を持っていないこと、そしてそのしたたかさを自ずから包含する日本人としての歴史的価値観を把持していないことが一番大きな問題であることも浮かび上がってくる。我々が太子の古への時代を過去の事実と見るだけでは歴史に学ぶことにならない。そうではなく今という時代も飛鳥の時代も国家的危機の構造はあまり変わっていないということを深く捉え、現代の国家・国民の和の精神であるところの日本の誇りに立脚した歴史的価値観の共有によるエネルギーこそ持つことであろう。
聖徳太子が甦るかどうかは、一にかかって我々日本人の心持ちにかかっていることを痛感した次第である。
この合宿に参加した意義は大きく、歴史を甦らせる力こそ、国家再生のエネルギー足りうることを自覚した時間となった。是非、感心のおありの方はご一報下さい。
日本会議大阪のホームページ
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by exod-US
| 2005-10-23 20:06
| エクソダス2005始動宣言