原発危機:まぼろしの安比高原スキー場レストハウス
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グラグラっと来たときにすぐ,これは大きいぞ!というのが分かった.外を見るとコンクリート製の電柱がしなしなと左右に揺れ動いている.わたしはそのとき便所の造作にかかっているところだったが,親方の礼蔵さんが脱兎のように横をすり抜けて外に飛び出してゆくのが見えた.もう引退してもいい年頃の礼蔵さんが思いもかけぬ機敏さを見せたのにはびっくりした.便所のような柱で囲まれた狭い空間は屋内ならもっとも安全な場所と言ってもよいが,それ以上にわたしはこの建物の耐震性に関しては強い自信があったので,動かずに地震の収まるのを待った.

これは法隆寺の宮大工西岡常一氏の道具(竹中大工道具館)
雰囲気はわたしの道具箱に似ている・・・自作した墨壷などそっくりだ.
わたしがその建物の耐震性に自信を持っていたというのは,この建物を一から十まで礼蔵さんと二人だけで作ってきたからだ.一棟まるまる一人で刻むというのはあまりないことだが,このときは礼蔵さんが墨付けし,刻み(部材の加工)はすべてわたしがやった.そのころすでに電動丸鋸を始めとする木工機械は普通に使われていたが,この現場ではわたしはあえて手鋸と鑿だけを使い,すべて自分の手で加工した(わたしは尺2という普通より一回り大きいサイズの両刃鋸を愛用していた).柱はすべて4寸角(12cm)の国産ヒノキ,いわゆる総檜造りで,筋交いの断面も2寸(6cm)×3寸5分(10.5cm),桁は5寸(15cm)×2尺(60cm)という余裕の部材を使っている.原則として筋交いの入るところにはすべて入れていたから,「この建物が潰れることはあるかもしれないが,もし潰れることがあるとしたら仙台中のすべての木造家屋が潰れた後だ」と言い切れる自信がわたしにはあった.幸いまだ瓦は乗っていなかったので被害は軽微で終わり,玄関の柱のところで基礎が少しずれただけで,建物本体はびくともしなかった.
大工としてのわたしの最後の仕事は安比高原スキー場のレストハウスとして米国から輸入されたログハウスの建設だった.これはわたしが棟梁として手がけた最初にして最後の建築物である.安比高原スキー場はゴルフ場や高原牧場を備えたオールシーズン・リゾートだが,リクルートが主体となり,北海道東北開発公庫,岩手県,安代町などが出資して設立した第3セクター安比総合開発株式会社によって開発され,1981年12月16日にオープンした.いわゆるリゾートブームの先駆けとなり(1987年5月リゾート法成立),84年頃から次々にゲレンデを拡張して1991年には入場者数150万人というピークを記録した.今年は開業30周年に当たり,「★安比高原スキー場の30周年を振り返る ー思い出のポスター&鳥瞰図展ー」というのをやっているはずだったが,3月30日付けで今シーズン中のスキー場の全営業休止を告知した.

建物のスケールはあまり正確には覚えていない.多分柱間隔(スパン)は4メートルだったと思うので,桁行き16メートル,梁間20メートルだったのではないかと思う.写真で見ると思ったより勾配はのろいが,屋根に登るとするする落ちてしまうほどの急勾配である.6寸勾配として棟束6メートル,階高は3メートルだから地表からの棟の高さ12メートルというのが正解だろう.切妻の大屋根で両側に2つづつ飾り屋根(ドーマー)があり,正面の高いところに天窓が開いている.ファザードの小屋根のかかった木製の階段を登って屋内に入ると,小屋組みまで見上げるような開放感のある吹き抜けで,太い円柱の上には長くずっしりとした梁が通っている.
基礎工事が終わってログを積み始めるまでの間は,工法手ほどきのため米国から派遣された大工が現場に付いていた.わたしの見る始めての実物のアメリカ人だったが,「陽気なアメリカ人」を絵に描いたような男で,背は高く,カウボーイハットをかぶり,いつも口笛を高らかに吹きながら大またに歩き回っていた.日本の大工は腰に釘袋を下げ,ハンマーは片側が平らで片側が丸い鉄製の槌に比較的短い木の柄を付けたものを使っているが,彼のハンマーは全体が鉄製でかなり長く,しかも片側には釘抜きが付いていてそれを吊り皮で腰にぶら下げている.これは日本では舞台装置などをやっている連中のスタイルだ.少し気恥ずかしい気もしたが,我々も早速それに習って鉄製のハンマーを腰にぶら下げた.英語をしゃべれる者はわたしを含めて一人もいなかったが,同じ大工同士だから身振り手振りで何とか話は通じる.

アメリカ人大工は木材の入荷と前後して先乗りしていたが,基礎工事が遅れたためいよいよ本番という段になって,ほとんど我々と入れ替わりという感じで帰国してしまった.その後,コロラド州のローカルテレビが取材に来た.日本人女性通訳を入れて傍らに仮設したストーブのある小さな丸太小屋に車座になってこもごも話をした.スキー場の建設は地元では当然大きな話題となっていたから,ローカル紙には何度も取り上げられているようだが取材というのはなかった.
材料置き場から現場までの材料の積み下ろしにはレッカーを使ったが,オッペさん(オペレータ)が腕のよいレッカーの達人であったことは我々に取って最大の幸運だったと言えるだろう.基礎工事がまだ終わらないうちからすでに雪に見舞われたが,雪が降るのよりひどいのが地吹雪だった.一吊りの丸太で1トンほどの重量はあったと思われるが,強いブリザードで吊荷は風にあおられて左右にぶらんぶらんと振れたから,積み上げたログにぶつけないで着地させるにはかなりの技と呼吸を要する.最初はわたしが墨付けしていたが,丸太に墨付けする要領を大体覚えたので,地元大工の中から2人を抜擢して墨付けを依頼した.一人は一番大きいチームの長で,もう一人は近隣の村の名前を苗字に持つ体格のよい若者.わたし自身は少し高いところからレッカーを指示する役をやることにした.このとき使った笛は探せばどこかにあると思う.

朝,ブリザードの中をあえぎながらジープで登ってゆくと,まだ野地板を張っていない小屋組みだけの建物の大きな梁からは2メートル以上もある太い氷柱(つらら)が何本も下がって,まるで氷の女王の城に入ってゆくようだ.我々の朝の日課はまずともかく上に上がり,桁などの上の雪を箒で掃き落とすところから始まる.ほっておくと朝日で一旦解けた雪は温度が下がれば再び凍結し,その上を歩いた誰かは間違いなく転落する.また別の朝には山道をくねくねと登ってゆくと山の中に谷をまたいで大きな虹がかかっていた.その下を潜り抜けて後ろを振り返ると虹が今度は後方に見えた.つまり我々は虹の架け橋の下をくぐって向こう側に抜けたって訳だ.ウソじゃないってば.ここは宮沢賢治の故郷,岩手だからね.そんなこともあるんだよ.

(続く)