2005年 10月 09日
郵貯・簡保の自然縮小と国家財政基盤の崩壊 補論
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補論
1)「郵貯収益」の虚構-利子源泉なき利払いと損失膨張
2)「民営=善」という幻想-金融業における自己責任の放棄
3)「小さい政府」という幻想-民営化の代償に政府の肥大化
1)「郵貯収益」の虚構-利子源泉なき利払いと損失膨張
90年代に混迷を重ねた銀行・生保・証券に比して、郵貯・簡保は順調に資金を拡大した。90年-99年の間、郵貯・簡保の資金は189兆円から377兆円まで伸びた。民間金融機関には思いもよらない好成績であった。しかし、その実態はきわめて「不健全」であった。
民間金融機関の危機は、借り手の企業とくに建設・不動産部門が地価バブル崩壊で壊滅的な打撃を受けたからである。借り手が利払いも元本返済できなくなれば、貸手である銀行・生保が預金者・契約者に金を払い戻すことはできない。
では、郵貯・簡保資金の借り手はバブル崩壊の悪影響を免れ、元利の支払いをしたのか。とんでもない。財投資金の借り手である政府・自治体・特殊法人などはバブルの最中でさえ、赤字であった。利払いのもとになる収益(税収黒字や経常利益)がもともとなかった。
最終の借り手が利子を払わないのに、財務省は預託金に高い利子をつけ、郵政公社は預金者に高い利子をつけた。郵貯の主力、定額預金は90年代初頭にバブル期と同じ5~6%の利子をつけ、半年複利、10年据え置きで、市中銀行に比して桁外れの高金利を保証した。
資産運用の実績(借り手の利払い)と無関係に高利を保証し、逆ザヤでも金利を払い続けた。この利子が預金元本に加算され、自動的に預金高が増えていたのである[仁科剛平『郵貯崩壊』祥伝社、1章]。
財務省に預託された資金の利子は、必要に応じて税金から「利子補給金」が支給された。しかし、税収不足になると、利払い原資も国債でまかない、その国債を郵貯等に買わせるようになった。つまり、財務省(旧大蔵省)は郵政に支払う利子の原資を郵政資金から調達していた。預金者からいうと、預金で預金利子をつけたことになる。
これはでほとんどネズミ講ではないか。90年代前半には預金自体の増加が合ったが、後半になると元加利子が預金増加の主力になった。こうなると、固定メンバーのネズミ講である。90年代郵貯残高の驚異的な伸びはこのようなからくりの所産だった。簡保もまた採算無視の新契約者サービスを売り物にして客を集めた。
2)「民営=善」という幻想-金融業における自己責任の放棄
民営化が「望ましいもの」であるためには、私営企業が自己責任を全うする存在でなければならない。公的企業・公的資金を食いものにして存続・営利を図る企業は「官」以上に悪である。
金融業の自己責任の基本は、金融破綻の救済に当たる預金保険機構に破綻処理に十分な保険金を積み立てることにある。こうすれば、ある銀行や生保が破綻しても、同業者が出し合った保険金で処理され、社会に迷惑をかけないですむ。
反対にろくな積み立てをしないで営業しているとすると、金融業界全体としては無保険で営業しているのと同然である。いわば無保険で車を運転しているようなものである。銀行・生保・証券会社などが経営業破綻した場合に、政府が「公的資金」でしりぬぐいをすることは、預金保険の機構が機能していないことを示す。
実際、いま預金保険機構への保険金納入は年5000億円、これでは地銀1行の破綻でも足が出る。同機構は相次ぐ破綻救済の結果、16兆円の債務を抱える。金融システム安定の基盤を支えるはずの預金保険機構が、年収の32倍の債務を抱えて破綻している。
郵貯・簡保はここにも融資している。つまり、無責任な「民」のしりぬぐいをしている。しかし、もし郵貯・簡保が民営会社になると、預金保険機構を救済する側からそれに救済される側になる。
いまでさえ破綻している預金保険機構に対して、郵政334兆円の資金が「救済する側」から「救済される側」に回ったらどうなるか。金融部門の自立性・自己責任性はいま以上に破壊される。ここからも、郵政民営化が金融システム総体の不安定をもたらすことがわかる。
預金保険機構が赤字倒産の状態にあることは、金融業の基本的な「無責任状態」を顕している。というのも、同機構は郵貯や銀行から借りた資金を、破綻行への「自己資金補填」に使っている。しかし、この資金の持ち主は預金者である。その預金が預金保険機構を介して、破綻行の「自己資金」に転化されているのである。
この資金は、渡し切りになるのであれば預金者の資産の詐取になるし、返済を要するのであれば「自己資本」ではない。他人の資金を本人の承諾なしに、自己資金にすることは業務上横領である。
たとえ救済を受けた銀行等が返済できなくても、形式的には預金保険機構が責任をもって「預金者に資金を返す」ことになっている。だがしかし、同機構にはこの支払い義務を果たす能力(資金力)がない。返すためには別の所から借りるしかない。というわけで、預金保険機構が、預金者の金を破綻行の自己資本に流用する事態が続いている。
この現状は正常ではない。しかし、問題は、民間金融機関が自己責任を全うせず、公的資金(郵貯・簡保)に救済を依存する点にある。金融機関の自己責任性の基盤は、預金保険機構に十分な倒産対策金を積むことである。
本当は保険料を数倍にするのが正道であるが、銀行がその負担に耐えられない。民(銀行・生保等)が自己責任を全うし、社会に不当な負担をかけないで営業する状態にならないかぎり、「民営化」が組織の改善になる保証がない。現状では「民善・官悪」論や「金融・民活」論もまた現実離れの幻想である。
民営の郵貯会社・簡保会社ができたとしても、「資金運用」の知識・経験・能力を欠いている。大量の専門家を急遽雇ったとして、それで運用成果が出せるであろうか。じつは、本来の運用プロである銀行・生保がいまや日本国債という極端な低利債権を大量に買っている。このこと自体、ろくな運用先がないことを示している。
いくら資金運用のノウハウをもっていても、投資機会が不足している。そこに郵貯資金が、流れ込んできたら銀行も困る。現状でも、有利な運用先がないのに、郵貯からの流入する資金と競合させられたらますます苦しくなる。「金融民活」どころか「金融共倒れ」が必至である。
3)「小さい政府」という幻想-民営化の代償に政府の肥大化
「巨大な公社や公団を民営化すると、行政改革になる」であろうか。かつて中曾根元首相はそう主張し、いま小泉首相が同じ発想で道路関係公団や郵政公社の民営化を進めている。これが事実に反するというより、巨大な財投機関が民営化されるごとに政府が肥大化する、といえばだれでも驚くであろう。しかし、これまでの事例はこれが事実であることを示す。
政府レベルにおける「民営化」の先例は、国鉄、電電、専売の3公社の民営化である(といってもJR東日本、西日本以外は、財務大臣の株保有で半国有のままである)。
このうち国鉄は、37.1兆円と大きな累積赤字を抱えて行き詰まった。その赤字を抱えたまま「株式会社」にした場合、債務返済に窮して即刻倒産する。
そこで、政府は「国鉄清算事業団」と「新幹線保有機構」という二つの財投機関(財政投融資から融資を受ける機関)を新設し、債務の大部分をそこに移し替えて返済に当たらせた。これによってJR各社は過酷な債務負担から免れることができ、兎にも角にも「株式会社」としての経営が成り立つようになったのである。
さて、財投機関として残った「国鉄清算事業団」はどうなったか。これは赤字を膨らませたあげく、「再国有化」された。結果として、政府はその分肥大化したのである。
すなわち、「国鉄清算事業団」は累積債務の2/3、25.5兆円を引き受けた。この国鉄処分では、収益力の乏しい清算事業団(非稼働部門)になんと利払いを命じた。当然、この組織は借金で利払いを続け、債務を減らすどころか10年後の解散時には逆に約28兆円にまで膨らませた。政府は、この大半23.5兆円を一般会計で引き受け、結局国債に引き継いだ。「旧国鉄赤字の再国有化」である。
残りのうち4.3兆円(年金等負担金分)を「新幹線保有機構」を吸収した「鉄道建設公団」に引き取らせた(現在では独立行政法人「鉄道建設・運輸施設整備支援機構」)。JR各社の追加負担はたった1800億円であった(実質免除)。旧国鉄が残した累積債務は、最終的にその大半が「再国有化」されたのである。それも公社有から純国有になった。
この国鉄「民営化」の核心は、官(国鉄公社)から官(政府)への債務移転にある。この債務移転には、通常の破綻処理と異なる点がある。というのは、清算と銘打ったにも関わらず、旧国鉄には債務の減免とくに利払い停止がなされていない。だからこそ「清算事業」で赤字が増えたのである。
通常の破産処理では真先に、利払い停止をかけ、続いて債務減免の協議に入る。これが「破産処理」の核心である。それをしないと、無為に赤字が膨らみ、すべてのひとが損をするからである。だから国鉄の「清算事業」は、利払いを継続させ債務減免をさせないための制度、つまり国鉄の清算をさせないための制度であった。
なぜこのような異常な制度がつくられたか。それは、財投制度を(社会の批判から)守るためである。国鉄破産と対照的に、英仏を結ぶ「ユーロトンネル」社が破産したときは、利払い停止、銀行等の出資者の債権カットが整然と行われた。それなしには、真の再建はありえないからである[河宮信郎・青木秀和『公共政策の倫理学』丸善、2002、10章]。
なぜ、国鉄清算では通常の破産処理が行われなかったのか。通常の破産管財をすると、出資者である財投、その出資者である郵政に損失が出る。そうなると、財投による無責任投融資の制度自体が批判にさらされる。それよりも、利払いの継続・赤字の膨張を放置し、すべて財投で裏から補填するほうが「有利」と「官」は判断したのであろう。
「財政投融資」は「官から官へ」の債務移転を財投の矛盾隠蔽にまで容易にしたのがである。この国家金融システムが、無責任な「投融資」を続け、そこで生じた損失の膨張を温存し、その責任を回避することを可能にした。この官による浪費システムの資金源が、郵貯・簡保「年金」、つまり国民が政府を信用して預けた「貯蓄」であった。
この債務の「官から官」への債務移転(不良債権の純国有化)を財投システム全体に拡大したのが、じつは「財投改革」だった。「改革」を利用して財務省は、資金運用部が負っていた預託金債務を、そのまま国債・地方債にすり替えたのである。ここで政府は市中金融機関への財投債売却を進め、したたかに「民の資金」を財投システムに取り込んだ。しかし、政府財政が郵貯・簡保、年金基金を不可欠の基盤とする状況が続いているのはいうまでもない。
さらに、政府は新しく「官から官へ」の債務移転を行おうとしている。05年10月に始まった道路4公団の「民営化」に当たり、東日本高速道路会社など5つの「株式会社」は、ほとんどの累積債務を免れる。わずかに引き継ぐ債務はサービスエリアなどの資産継承の見返りの部分だけである。
そして、総額37.4兆円の「有利子負債」は、新設される「独立行政法人日本高速道路保有・債務返済機構」という「財投機関」に引き継がれることになっている。ここでも「赤字の国有化」が行われた。道路公団「民営化」というのは、小泉「構造改革」のもう一方の目玉であるが、国鉄「民営化」の寸分違わぬ焼き直しにすぎない。「破産機関の利払い継続」という異常な措置も国鉄清算のときと同じである。
もし、郵貯・簡保という「官」に張り付いた資金を、預金者という「民」に戻そうとするのなら、まず財投機関がきちんとした税収や収益を計上して郵貯・簡保に債務を返済する必要がある。それをせずに「民営化」するなら、現在の郵貯・簡保が政府に貸し付けた金融資産をすべて買い取ることが出来る、もう一つの、さらに巨大な郵貯・簡保を用意するしかない。
ところが、小泉政権は、郵貯・簡保を単純に「民営化」して、その縮小だけを図ろうというのである。郵貯・簡保は純減時代に入り、財政を下支えする能力を急速に失っている。
巨大な借金を抱えた「大きな政府」のままで、資金源の枯渇を加速させたら、財政上の資金繰りは瞬く間に行き詰まって財政崩壊に一気に向かってしまう。宰相が「ぶっ壊わす」のは自民党ではなく、わが国の財政なのである。
公明党を含む連立政権に全議席の2/3という絶対安定多数を得た小泉政権は、おそらく「郵政民営化」の動きを早めなければならなくなるはずである。しかし、それは早期の財政破綻を確実に招き寄せる。それをきっかけに現政権若しくはその後継政権は崩壊することになろう。
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1)「郵貯収益」の虚構-利子源泉なき利払いと損失膨張
2)「民営=善」という幻想-金融業における自己責任の放棄
3)「小さい政府」という幻想-民営化の代償に政府の肥大化
1)「郵貯収益」の虚構-利子源泉なき利払いと損失膨張
90年代に混迷を重ねた銀行・生保・証券に比して、郵貯・簡保は順調に資金を拡大した。90年-99年の間、郵貯・簡保の資金は189兆円から377兆円まで伸びた。民間金融機関には思いもよらない好成績であった。しかし、その実態はきわめて「不健全」であった。
民間金融機関の危機は、借り手の企業とくに建設・不動産部門が地価バブル崩壊で壊滅的な打撃を受けたからである。借り手が利払いも元本返済できなくなれば、貸手である銀行・生保が預金者・契約者に金を払い戻すことはできない。
では、郵貯・簡保資金の借り手はバブル崩壊の悪影響を免れ、元利の支払いをしたのか。とんでもない。財投資金の借り手である政府・自治体・特殊法人などはバブルの最中でさえ、赤字であった。利払いのもとになる収益(税収黒字や経常利益)がもともとなかった。
最終の借り手が利子を払わないのに、財務省は預託金に高い利子をつけ、郵政公社は預金者に高い利子をつけた。郵貯の主力、定額預金は90年代初頭にバブル期と同じ5~6%の利子をつけ、半年複利、10年据え置きで、市中銀行に比して桁外れの高金利を保証した。
資産運用の実績(借り手の利払い)と無関係に高利を保証し、逆ザヤでも金利を払い続けた。この利子が預金元本に加算され、自動的に預金高が増えていたのである[仁科剛平『郵貯崩壊』祥伝社、1章]。
財務省に預託された資金の利子は、必要に応じて税金から「利子補給金」が支給された。しかし、税収不足になると、利払い原資も国債でまかない、その国債を郵貯等に買わせるようになった。つまり、財務省(旧大蔵省)は郵政に支払う利子の原資を郵政資金から調達していた。預金者からいうと、預金で預金利子をつけたことになる。
これはでほとんどネズミ講ではないか。90年代前半には預金自体の増加が合ったが、後半になると元加利子が預金増加の主力になった。こうなると、固定メンバーのネズミ講である。90年代郵貯残高の驚異的な伸びはこのようなからくりの所産だった。簡保もまた採算無視の新契約者サービスを売り物にして客を集めた。
2)「民営=善」という幻想-金融業における自己責任の放棄
民営化が「望ましいもの」であるためには、私営企業が自己責任を全うする存在でなければならない。公的企業・公的資金を食いものにして存続・営利を図る企業は「官」以上に悪である。
金融業の自己責任の基本は、金融破綻の救済に当たる預金保険機構に破綻処理に十分な保険金を積み立てることにある。こうすれば、ある銀行や生保が破綻しても、同業者が出し合った保険金で処理され、社会に迷惑をかけないですむ。
反対にろくな積み立てをしないで営業しているとすると、金融業界全体としては無保険で営業しているのと同然である。いわば無保険で車を運転しているようなものである。銀行・生保・証券会社などが経営業破綻した場合に、政府が「公的資金」でしりぬぐいをすることは、預金保険の機構が機能していないことを示す。
実際、いま預金保険機構への保険金納入は年5000億円、これでは地銀1行の破綻でも足が出る。同機構は相次ぐ破綻救済の結果、16兆円の債務を抱える。金融システム安定の基盤を支えるはずの預金保険機構が、年収の32倍の債務を抱えて破綻している。
郵貯・簡保はここにも融資している。つまり、無責任な「民」のしりぬぐいをしている。しかし、もし郵貯・簡保が民営会社になると、預金保険機構を救済する側からそれに救済される側になる。
いまでさえ破綻している預金保険機構に対して、郵政334兆円の資金が「救済する側」から「救済される側」に回ったらどうなるか。金融部門の自立性・自己責任性はいま以上に破壊される。ここからも、郵政民営化が金融システム総体の不安定をもたらすことがわかる。
預金保険機構が赤字倒産の状態にあることは、金融業の基本的な「無責任状態」を顕している。というのも、同機構は郵貯や銀行から借りた資金を、破綻行への「自己資金補填」に使っている。しかし、この資金の持ち主は預金者である。その預金が預金保険機構を介して、破綻行の「自己資金」に転化されているのである。
この資金は、渡し切りになるのであれば預金者の資産の詐取になるし、返済を要するのであれば「自己資本」ではない。他人の資金を本人の承諾なしに、自己資金にすることは業務上横領である。
たとえ救済を受けた銀行等が返済できなくても、形式的には預金保険機構が責任をもって「預金者に資金を返す」ことになっている。だがしかし、同機構にはこの支払い義務を果たす能力(資金力)がない。返すためには別の所から借りるしかない。というわけで、預金保険機構が、預金者の金を破綻行の自己資本に流用する事態が続いている。
この現状は正常ではない。しかし、問題は、民間金融機関が自己責任を全うせず、公的資金(郵貯・簡保)に救済を依存する点にある。金融機関の自己責任性の基盤は、預金保険機構に十分な倒産対策金を積むことである。
本当は保険料を数倍にするのが正道であるが、銀行がその負担に耐えられない。民(銀行・生保等)が自己責任を全うし、社会に不当な負担をかけないで営業する状態にならないかぎり、「民営化」が組織の改善になる保証がない。現状では「民善・官悪」論や「金融・民活」論もまた現実離れの幻想である。
民営の郵貯会社・簡保会社ができたとしても、「資金運用」の知識・経験・能力を欠いている。大量の専門家を急遽雇ったとして、それで運用成果が出せるであろうか。じつは、本来の運用プロである銀行・生保がいまや日本国債という極端な低利債権を大量に買っている。このこと自体、ろくな運用先がないことを示している。
いくら資金運用のノウハウをもっていても、投資機会が不足している。そこに郵貯資金が、流れ込んできたら銀行も困る。現状でも、有利な運用先がないのに、郵貯からの流入する資金と競合させられたらますます苦しくなる。「金融民活」どころか「金融共倒れ」が必至である。
3)「小さい政府」という幻想-民営化の代償に政府の肥大化
「巨大な公社や公団を民営化すると、行政改革になる」であろうか。かつて中曾根元首相はそう主張し、いま小泉首相が同じ発想で道路関係公団や郵政公社の民営化を進めている。これが事実に反するというより、巨大な財投機関が民営化されるごとに政府が肥大化する、といえばだれでも驚くであろう。しかし、これまでの事例はこれが事実であることを示す。
政府レベルにおける「民営化」の先例は、国鉄、電電、専売の3公社の民営化である(といってもJR東日本、西日本以外は、財務大臣の株保有で半国有のままである)。
このうち国鉄は、37.1兆円と大きな累積赤字を抱えて行き詰まった。その赤字を抱えたまま「株式会社」にした場合、債務返済に窮して即刻倒産する。
そこで、政府は「国鉄清算事業団」と「新幹線保有機構」という二つの財投機関(財政投融資から融資を受ける機関)を新設し、債務の大部分をそこに移し替えて返済に当たらせた。これによってJR各社は過酷な債務負担から免れることができ、兎にも角にも「株式会社」としての経営が成り立つようになったのである。
さて、財投機関として残った「国鉄清算事業団」はどうなったか。これは赤字を膨らませたあげく、「再国有化」された。結果として、政府はその分肥大化したのである。
すなわち、「国鉄清算事業団」は累積債務の2/3、25.5兆円を引き受けた。この国鉄処分では、収益力の乏しい清算事業団(非稼働部門)になんと利払いを命じた。当然、この組織は借金で利払いを続け、債務を減らすどころか10年後の解散時には逆に約28兆円にまで膨らませた。政府は、この大半23.5兆円を一般会計で引き受け、結局国債に引き継いだ。「旧国鉄赤字の再国有化」である。
残りのうち4.3兆円(年金等負担金分)を「新幹線保有機構」を吸収した「鉄道建設公団」に引き取らせた(現在では独立行政法人「鉄道建設・運輸施設整備支援機構」)。JR各社の追加負担はたった1800億円であった(実質免除)。旧国鉄が残した累積債務は、最終的にその大半が「再国有化」されたのである。それも公社有から純国有になった。
この国鉄「民営化」の核心は、官(国鉄公社)から官(政府)への債務移転にある。この債務移転には、通常の破綻処理と異なる点がある。というのは、清算と銘打ったにも関わらず、旧国鉄には債務の減免とくに利払い停止がなされていない。だからこそ「清算事業」で赤字が増えたのである。
通常の破産処理では真先に、利払い停止をかけ、続いて債務減免の協議に入る。これが「破産処理」の核心である。それをしないと、無為に赤字が膨らみ、すべてのひとが損をするからである。だから国鉄の「清算事業」は、利払いを継続させ債務減免をさせないための制度、つまり国鉄の清算をさせないための制度であった。
なぜこのような異常な制度がつくられたか。それは、財投制度を(社会の批判から)守るためである。国鉄破産と対照的に、英仏を結ぶ「ユーロトンネル」社が破産したときは、利払い停止、銀行等の出資者の債権カットが整然と行われた。それなしには、真の再建はありえないからである[河宮信郎・青木秀和『公共政策の倫理学』丸善、2002、10章]。
なぜ、国鉄清算では通常の破産処理が行われなかったのか。通常の破産管財をすると、出資者である財投、その出資者である郵政に損失が出る。そうなると、財投による無責任投融資の制度自体が批判にさらされる。それよりも、利払いの継続・赤字の膨張を放置し、すべて財投で裏から補填するほうが「有利」と「官」は判断したのであろう。
「財政投融資」は「官から官へ」の債務移転を財投の矛盾隠蔽にまで容易にしたのがである。この国家金融システムが、無責任な「投融資」を続け、そこで生じた損失の膨張を温存し、その責任を回避することを可能にした。この官による浪費システムの資金源が、郵貯・簡保「年金」、つまり国民が政府を信用して預けた「貯蓄」であった。
この債務の「官から官」への債務移転(不良債権の純国有化)を財投システム全体に拡大したのが、じつは「財投改革」だった。「改革」を利用して財務省は、資金運用部が負っていた預託金債務を、そのまま国債・地方債にすり替えたのである。ここで政府は市中金融機関への財投債売却を進め、したたかに「民の資金」を財投システムに取り込んだ。しかし、政府財政が郵貯・簡保、年金基金を不可欠の基盤とする状況が続いているのはいうまでもない。
さらに、政府は新しく「官から官へ」の債務移転を行おうとしている。05年10月に始まった道路4公団の「民営化」に当たり、東日本高速道路会社など5つの「株式会社」は、ほとんどの累積債務を免れる。わずかに引き継ぐ債務はサービスエリアなどの資産継承の見返りの部分だけである。
そして、総額37.4兆円の「有利子負債」は、新設される「独立行政法人日本高速道路保有・債務返済機構」という「財投機関」に引き継がれることになっている。ここでも「赤字の国有化」が行われた。道路公団「民営化」というのは、小泉「構造改革」のもう一方の目玉であるが、国鉄「民営化」の寸分違わぬ焼き直しにすぎない。「破産機関の利払い継続」という異常な措置も国鉄清算のときと同じである。
もし、郵貯・簡保という「官」に張り付いた資金を、預金者という「民」に戻そうとするのなら、まず財投機関がきちんとした税収や収益を計上して郵貯・簡保に債務を返済する必要がある。それをせずに「民営化」するなら、現在の郵貯・簡保が政府に貸し付けた金融資産をすべて買い取ることが出来る、もう一つの、さらに巨大な郵貯・簡保を用意するしかない。
ところが、小泉政権は、郵貯・簡保を単純に「民営化」して、その縮小だけを図ろうというのである。郵貯・簡保は純減時代に入り、財政を下支えする能力を急速に失っている。
巨大な借金を抱えた「大きな政府」のままで、資金源の枯渇を加速させたら、財政上の資金繰りは瞬く間に行き詰まって財政崩壊に一気に向かってしまう。宰相が「ぶっ壊わす」のは自民党ではなく、わが国の財政なのである。
公明党を含む連立政権に全議席の2/3という絶対安定多数を得た小泉政権は、おそらく「郵政民営化」の動きを早めなければならなくなるはずである。しかし、それは早期の財政破綻を確実に招き寄せる。それをきっかけに現政権若しくはその後継政権は崩壊することになろう。
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by exod-US
| 2005-10-09 14:30
| 郵政をユダヤ資本から取り戻せ