2005年 10月 09日
郵貯・簡保の自然縮小と国家財政基盤の崩壊 (独立系メディア)
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2005年8月8日の歴史的な小泉郵政改革法案参院否決をきっかけに暴走を始めた小泉ファッショ政権が9月11日総選挙で衆議院の2/3を制圧するという事態に立ち至ったあと,改めて小泉政権の喧伝する郵政民営化政策の根本的誤謬を検証するために,河宮中京大教授と地方自治・地域貨幣の在野研究者青木秀和氏の共著によりネット上で発表された論文である.字数制限の関係で3部に分割して掲載する.(馬場英治)
http://eritokyo.jp/independent/nagano-pref/kawamiya-aoki-col001.html
転載 from 独立系メディア 今日のコラム
「郵政民営化によって資金を民に回し、経済を活性化する」という小泉・竹中構想が喧伝されてきた。
いわば「金融民活」論である。この構想に、小泉政権だけでなく、マスコミ編集者、経済評論家から、金融部門を含む財界や経済学者(の一部)まで期待を寄せているようにみえる。
政権に挑んだ民主党も、本心は民営化に賛成で「預金規模の圧縮を先行させよ」という注文をつけただけであった。
「郵政民営化」の方針そのものに反対したのは自民の造反組と共・社だけであった。有権者には「民営化反対」の選択肢がほぼ閉ざされていた。
しかし、この「郵政民営化」構想は救いがたい自己矛盾を抱えている。というのは、もし「官」が「民」の資金を吸い上げるのがわるいとすると、「官の長」である政府が民の資金を吸い上げることもわるいはずである。
ところが、小泉政権は大量に「民」の資金を吸い上げてきた。在任4年間に、146兆円の国債を発行し、06年度の予定も合わせると180兆円になる(このほかにドル買い用の短期国債を大量に発行した)。
要するに小泉首相は、「日本一の借金王」と称した小淵恵三元首相以上に「民資」を吸い上げてきた。その当事者が「官(政府)に資金を回すな」と主張している。
政府は「民資」の大量吸収、すなわち「官の悪」と自分が攻撃する政策をまる4年間続けてきた。なんの「改革」もしなかったのはなぜか。
現に「実行中の政策」と正反対の方針を、「政策目標」として掲げることが許されるのか。またその「目標」を選挙民が「現実の施政と反対だ」と気づかずに支持してしまったら、政治はどうなるのか。
要するに、現実の施政は「民資の大量吸収」、改革の目標は「民への資金還流」、そのための手段が「郵政民営化」である。この「三つ巴」が互いに矛盾しているのである。三項の相互矛盾は、なにに起因し、どのような財政・金融問題を惹き起こすのか。
本稿では、「郵政民営化による経済活性化」論が壮大な共同幻想であり、じつは財政破綻の危機を秘めた「パンドラの箱」であることを明らかにしたい。「郵政民営化」法の成立・施行を待つ間にも、政府の資金欠乏、国債の消化困難が顕在化すると思われる。
Ⅰ部 「郵政」の本質-税外の政府収入
「郵営国家」の構造と問題点
そもそも「郵政」とはなんであり、なぜそれが財政と不可分なのか。これを明らかにするには、「創設以降今日まで、郵政がどのような歴史的役割を果してきたのか」を問わなければならない。折しも、郵貯・簡保の資金収縮が始まった。
「改革」に先行して「官」への資金供給力が急に細った。このこと自体、郵政130年の歴史的総括を迫る変動である。
郵政の歴史を、戦前・戦中史(1875-1945)70年の第一ラウンドと戦後史(1946-2016)70年の第二ラウンドに分けて考えよう。
前者は、明治期の郵貯創設から第二次大戦期の「戦時財投」による壮絶な破産までである。戦後史は、敗戦の灰塵のなか、預金封鎖と破綻処理から再出発してから今回の「民営化」問題決着までである。中間点の破綻・再出発から60年経ったいま、改めて郵政の存亡が問われるに至った。
★1 郵政事業の本質
「民の貯蓄」を「官の収入」に転化
「郵政改革」の核心は、資金額334兆円の「郵貯・簡保をどうするか」である。郵政3事業というが、郵貯214兆円・簡保119兆円と郵便事業とでは事業規模に2桁の差がある。
郵便事業と郵便局窓口は、公共サービスとして市民生活との関連が深いが、事業規模は数兆円、郵貯・簡保からの補助金で成り立つ(郵便事業は、1871年に江戸時代の飛脚制度を取り込んでつくられた)。
郵貯預金や簡保契約は、本来預金者や契約者(民)の「個人資産」である。この段階では銀行・生保と同じである。しかし、この後の運用が異なる。政府が国債という借金証文を郵政当局にわたし、金は政府が受け取る。政府は得た現金をそのまま税金と同じように使うことができる(財政投融資制度、財投)。
すなわち、政府(官)にとってはこの金(公的資金)は「税外の国庫収入」になる。
結局、「郵貯・簡保-財投」のセットは、「民の貯蓄」を「官の収入」に変える変換システムである。このシステムのおかげで、官(政府)は民から「借りた金」を「もらった金」のように使うことができる。
郵貯・簡保は、戦前から一貫して国債の消化機構であった(簡保の創設は大正時代、1916年)、むしろそのためにつくられたといってもよい。なお、簡保資金は大蔵省への預託を義務づけられていなかったが(「自主運用」制度)、大蔵省の預託金運用をまねた資金運用をしていたので、一括して扱う。
結局郵政は、債務者の政府が健全であれば成り立つが、不健全であれば破綻する。国家信用のもとは政府の「徴税能力」である。この「能力」の限界は国民の税負担力(対GDPで1/3程度)である。
ところが、歴史的な困難期には、政府がやみくもに国債を発行して、国民の税負担力を超えるところまで行く。これが、郵貯・簡保破綻の究極の原因である。
★2 創設から「戦時財投」の破産まで
戦前・戦中史(1875-1945)
日清・日露戦争から第一次大戦そして第二次大戦に至る戦費の調達、つまり戦時国債の購入に郵貯・簡保の資金が総動員された。政府が全戦費を税金でまかなおうとしたら、いかに軍国主義的に教育された国民でも怒る。大戦争では、全所得を徴収しても足りないからである。戦費は、「借り倒し」を前提とした借金でまかなうしかない。
各戦争における総戦費と一般会計歳出(通常の政府予算)の比をとると、日清戦争で 3.74倍、日露戦争で 4.15倍、日中/太平洋戦争で 9.16倍であった。
今次大戦では、戦費を郵貯・簡保・年金、銀行・生保からの借り入れと国債の日銀引き受けでまかなった。
郵貯・簡保・年金基金はあげて戦時財投にまわされ、すべて消尽した。郵政資金で造った兵器は太平洋の藻屑となり、軍需工場は空襲で破壊された[『数字でみる日本の100年』国勢社、1991、10章]。
戦争継続の財政基盤は税金よりも郵貯・簡保に依存していた。そこを経由して、政府が国民に払った金がまた政府に戻るからである。たとえば、兵士の給与が「軍事郵便貯金」に入ると、戦時国債を経て、兵器生産や兵士給与(本人分を含む)に回った。
これでは兵士が自費で戦争していたようなものではないか。税金ではこのような二重三重の使い回しはできない。
敗戦で戦時財投は当然返済不能になり、郵貯・簡保も破産した。じつをいうと、この「破産」は開戦前、軍需投資にフル動員された時点(1930年頃)ですでに運命づけられていた。
政府・軍部は、「返せなくなった」と告白して国民に謝罪するか、戦争拡大というバクチに賭けるか、の二者択一に追い込まれていたといえる。前者なら、国民は預金損失を被るにせよ、命まで失うことはなかったはずである。
実際は、破産した債務者(政府・軍部)が、債権者(預金者・国民)に謝るかわりに、「国(政府・軍部)のために死ね」と命令したのである。
★3 敗戦後の破綻・清算と再建(1946-1950)
戦時国債は本来的に「不良債権」である。戦争に使った金を政府に返せと請求しても返せるわけがない。つまり、政府(債務者)は債務不履行に陥る。
その結果、債権者である郵政、その債権者である預金者は預金を失う。この状況は敗戦前から不可避であった。しかし、戦争中はまだ政府信用の幻想が崩れない。敗戦で政府の無能・無責任が露呈するときに、国債が紙屑であることが白日のもとにさらされる。
郵貯・簡保の資産は「対政府債権」であるから、その価値は「債務者・政府」の信用(徴税能力)で決まる。もっとも国債額が国民の税負担力を超えると、自動的に(客観的な)債務不履行の状態になる。
しかし、「政府信用の幻想」が続く間は郵貯・簡保も無事である。郵貯・簡保の「破綻」は、政府の信用というより信用の幻想が崩れた瞬間に起こった。
あとに残った問題は、政府の「債務切り捨て」、つまり預金者の貯金収奪をどうやるかということであった。日本政府は、旧植民地住民、零細預金者など弱いところにほど重い損失負担、つまり全額ないし高率の不払いを課した。
他方では、軍需企業など財投資金の借り手に対しては債権放棄(返還免除)という恩典を与えた。零細預金者に不利、高額預金者や財投受益者に有利な破綻処理を企んだ。そのうえで、預金封鎖(引き出し規制)と新円切り換え、インフレによる減価を組み合わせて、ようやく累積債務を清算した[グループKIKI『どうして郵貯がいけないの』北斗出版、1993年、1章]。
このような理不尽な破綻処理が、敗戦後の混乱と占領軍の強権のもとで強行された。当然ながら、郵貯・簡保の信用も地に落ちた。信用回復・郵貯・簡保再建のために、政府は一般会計からの補償(税金による支払い保証)を含む信用保証の制度を設けた。
債務者の政府が、債権者である郵貯・簡保の債権を保証する制度である。保証人(政府)の支払能力には保証がないが、ともかくこれで郵貯・簡保は信用を回復した(現在まで継続)。
なお、占領軍による戦後処理の一環として、郵貯・簡保財政投融資も「民主化」の対象となったが、これが「非軍事化」でよしとされた。
その結果、旧陸海軍部がもっていた財投配分権を、大蔵省(現財務省)が一手に受け継いだ[竹原憲雄『戦後日本の財政投融資』文真堂 1988]。敗戦日本のなかで大蔵省は唯一「勝利者」であったといえる。もし大蔵省が旧軍部のモラル(の欠如)まで受け継いでいたとしたら、日本の郵政・財投は同じ過ちを繰り返しかねない。
このときの郵貯・簡保の「破綻処理」はどこがわるかったのか。それは、「債務者」である政府が恣意的な「預金切り捨て」をやったことである。通常の破産処理であれば、「債権者」(預金者・国民)が債務者(政府・旧軍事部門)に対して「破産管財人」としてのぞみ、債権の保全・回収・放棄のやり方を指示する。
少なくとも、債権者間の平等を確保するだけでも格段に公正な破綻処理になったはずである。「債務者・政府による破産管財」が許されない。この原則を、今後政府破産・郵貯・簡保整理が起こる場合にも適用する必要がある。
★4 郵貯・簡保資金の成長と
公共投資の拡大(1951-1974)
再生した郵貯・簡保は、敗戦後の復興、大規模公共事業、財政赤字の補填、金融破綻の処理など多岐にわたる政府支出を担ってきた。60年代まで、郵貯・簡保は、社会的効用の高い都市基盤、産業基盤の整備に低利の融資金を供給する効果的な金融システムとして機能したといえる。敗戦日本の復興を牽引した功績はある。
この「実績」に立って「政官業」利権複合体が確立し、やがて壮大な「無駄遣いシステム」に肥大した。最初から「悪」だったらここまで大きくはなれなかったであろう。
ところが、ダム建設や公団住宅建設、鉄道電化・新幹線網・高速道路網の整備など社会インフラの整備が進むにつれて、こういう公共建設部門は縮小されるべきであった。
西欧諸国ではこの経過を辿った。つまり公共投資の必要性が減るにつれて、公共工事の規模も縮小された。現在、これらの国では公共投資の対GDP比は日本のほぼ半分である。
(なお、アメリカは特殊で、必要不可欠な公共投資もやめて「軍事投資」に集中した。05年8月のハリケーン被害はその結果である。「民営」主義国家の末期症状である。)
ところが、日本では逆に、不要不急の大規模公共事業が止めどなく拡大した。なぜか。郵貯・簡保に「過剰な資金」が溜まり、それを「公共投資」に使える制度があり、そのような政策が続けられたからである。
80年代まで続いた所得水準の向上とそれを標的にした利用限度額の引き上げで、郵貯・簡保は銀行・生保を圧倒する集金力を獲得した。郵貯・簡保と年金基金の3機関に溜まる資金が、民間の銀行に溜まる全資金量と拮抗しうるようになった。
大蔵省(当時)は郵政資金、つまり税収なみの「税外国庫収入」を得て、これを是が非でも「運用」すべき立場に立った。あり余る金をどう使うかに苦慮することになった。
しかし、「この金を返済不能な貸し付け」に使ってはならないというのが、戦前史からの教訓であったはずである。しかし、財投運用先の是非が問われることはなく、大蔵省は専権的にこのような運用を続けた。
★5 財政投融資の腐敗から
地価バブルへ(1975-1990)2005.09.20
郵貯・簡保に集まる金を使い切るのが財投の役割となると、大規模な建設工事に投じるのが最も能率的である。1980年に18兆円を超え(1人当たり約18万円)、なお増えつづける財投資金を大蔵省の資金運用部(理財局)が使い切るのは大変だったにちがいない。
建設省(当時)は「大量無駄遣い」の起案能力で他省庁を圧し、大蔵省の“頼もしい盟友”となった。長良川河口堰(1800億円)、諫早湾干拓(2500億円)、徳山ダム(3000億円)など、環境破壊だけで効用ゼロの工事が、もっぱら「資金需要大(高コスト)」という理由で採択されたのではないか。この段階で、「財投使途の有効性や返済可能性を問わない」というモラルハザードが全開になったように思われる。
ところが、無制限な乱費に耐えると思われた財投が、不採算な建設投資の累積で、「財投対象機関」の財政を圧迫しはじめた。財投対象機関とは、旧国鉄などの特殊法人、地方自治体、ついで政府、つまり大規模な公的組織すべてである。この1980年代初頭の時点で、財投総体、郵貯・簡保のありかたが問われるべきだった。
個々の財投受け入れ機関は「返済義務」を免れない。だから、不採算な巨大投資をすれば、返済義務で首が回らなくなる。国鉄(旧)が38兆円の累積債務を抱えて倒産したとき、それは「財投という仕組み」総体の破綻を意味していた。
不採算の巨大建設工事(国鉄の場合は赤字地方線建設)を「政官業」の共謀で推進した。これは経済合理性を欠いており、その欠陥が露呈したのである。国鉄の状況は、すべての財投対象機関の先駆けであり典型であった。したがって、ここでは国鉄1社ではなく「郵政と財投」そのものが問われていた。
ところが、事態はあるべき方向とは逆に展開した。国鉄だけがわるい、とりわけ「国鉄労組がわるい」かのような攻撃キャンペーンが張られた。なお、これは「郵政民営化」論議における「郵便局員バッシング」の先例である。中曾根政権は、国鉄1社をスケープゴートにして「行革の目玉」とし、その裏で他の財投機関の無駄遣いを隠蔽し免責した。
国鉄「民営化」(1986年)、「国鉄清算」(1997年)の裏でなにがあったか。「民営化」に必要な資金はすべて財投資金(郵貯・簡保等)でまかなわれた。そもそも国鉄への「過大な不採算融資」自体が、郵貯・簡保資金で行われた。そこで生じた累積損失(国鉄清算事業団の残債27兆円)をさらに、郵貯・簡保の資金で埋めた[河宮信郎・青木秀和『公共政策の倫理学』丸善、2002、10章]。
要するに、郵貯預金者の金を不採算の投融資に充て、そこで生じた損失をさらに預金者の金で補填したということになる。預金者(真の債権者)からいうと、これは預金の横領であり、取り込み詐欺である。しかし、「これは許せない、あくまで返せ」といったら、JR各社は再倒産に追い込まれる。ここからわかるように「民営化」の核心は「損失転嫁」、累積赤字の「国有化」にある。
この損失転嫁が累積損失を引き受けるところ(郵貯・簡保)があってはじめて、「民営化」がなりたつ。赤字の国有化によって政府(の債務)規模はその分だけ大きくなる。旧国鉄1社の民営化で、政府は27兆円も大きくなった。
中曾根政権は、財投全般の無駄遣い体制を温存したうえ、さらに「民活」による「無駄遣い」を誘導した。「不採算な巨大開発」のために、財投資金だけではなく、民間資本も巻き込もうという政策であった。第三セクター方式と呼ばれる公共開発の新しい手段(官民共同出資の企業体)を法的に整備した。これが爆発的な開発ブームを巻き起こし、「土地・株式バブル」にまで突き進むことになった。
1980年代後半の地価・株価バブルを牽引したのは投機的開発による地価騰貴である。本来、営利・採算にさといはずの民間企業が「採算性のない巨大開発」に殺到したのはなぜか。それは長年にわたり、財投資金が「採算性を度外視した巨大開発」を可能にし、そこで建設関連業界に甘い汁を吸わせてきたからであろう。「官」からの資金補助が出る事業なら、自動的に採算が保証されると思い込んだのではないか。
じつはその反対である。もともと採算性がないところこそ財投資金の出番だったといえる。採算無視の開発を推進してきた主役は、大蔵省・建設省コンビであった。ところが、この第三セクター方式では自治体に「開発投機」のチャンスが与えられた。全国の自治体がこぞって「三セク」投機に走り、その結末のバブル崩壊とともに財政危機に陥った(cf. 自治体の公債依存率)。
この損失補填にも財投資金が投じられ、最終的には財投による特殊法人や地方自治体に対する融資の大半が不良債権化しているという指摘がある。
慶応義塾大学の土居丈朗助教授によると、これら財投機関への融資357兆円のうち、267兆円(75%)が不良債権化しているという[“特殊法人「不良債権」の実態”『文芸春秋』2003年3月号]。なおこれは、国債自体は不良債権でないとみなす範囲での試算である。
「バブル、つまり協同現象的な過剰投資」は「はじけた」のが悪いのではなく、「起こした」ことが悪い。日本経済の超長期的低迷を運命づけたのは中曾根政権である。
★9 地価バブルの崩壊から
国債バブルへの転落(1991-)
80年代の地価バブルは政府が下地をつくった。財投・民活・低金利政策の三点セットで、政府・自治体が開発ブームを先導し、地価つり上げを誘発した。地価・株価バブルの崩壊で、金融部門総体が壊滅的な打撃を受けた。
この歴史的な失政で生じた金融不安と長期不況への対策に、政府は無制限と思われるほどの国公債増発で応じた。この「国債バブル」が第二の失政である。とくに2008年から国債返済の負担が破局的な規模に達する。
銀行・生保・証券会社の動揺を尻目に、90年代の郵貯・簡保は一見順調に資金を増やした。この資金が国債バブルに総動員され、その余得で民間金融機関が救済された。
「民」(金融・建設・不動産業)が郵政資金(官)に救済を求めたことは、民(金融機関)が自らの非効率的かつ無責任な資金運用の責任をとれなかったことを意味する。自己責任を全うしえない点で「官」と同じなのである。救済に投じられた「公的資金」の実体は、預金者の「私的資産」であり、公的資金の減耗は預金者の資産の毀損であった。
バブル崩壊以後の財政の実態をみるためには、年々の収支よりも累積した結果をみるほうがわかりやすい。たとえば、国債は1990年166兆円、2005年度末で538兆円である。バブル破綻以後、372兆円増えた。そのうち313兆円は1995年から2005年の間に増えた。地方債を合わせると、ここからさらに4割増える。
国・地方を合わせた一般政府債務は774兆円になる(05年3月)。10年余でGDP相当の500兆円以上増えた勘定である。このほかに年金支払いの政府債務730兆円のうち、430兆円は財源が確保されていない。そして、すでに積み立てた基金140兆円も財投に回って不良債権化している。
これだけの資金を「官(政府・自治体)」が「民」から吸い上げた。しかも、郵貯・簡保および年金基金だけでなく、銀行・生保等を通して民間からも吸い上げている。経由する機関が国営であれ民営であれ差はない。実際国債保有高でみると、郵貯・簡保、年金などから213兆円、銀行・生保など民間金融機関から229兆円を借りている。民間金融機関からの借入のほうが多いのである。
つまり、郵政という資金経路が「民」に転換したら、政府はそこから資金を吸い上げるだけの話である。最終的な資金需要(財政赤字)を満たすために、政府は官民を問わず、あらゆる金融機関を資金調達の対象としてきた。この点では、郵貯民営化は「資金の民間還流」にさえ役立たない。
問題解決に役立たない。「郵政改革」はあらゆる「構造改革」の要となるどころか、問題解決に役立たない。
ともかく、歴代政府はこれだけの民間資金を吸い上げており、小泉政権もそれを継続し加速した。政府が実施中の政策とは反対の「政策目標」を掲げることは常軌を逸している。そして、政府が自分の財政基盤となってきた郵政を「ぶっこわす」と叫んでいる。
しかもそれで人気を博している。要するに、「民の資金を民に回す」という改革目標は、小泉政権の現実の施政と反対である。さらに「郵政民営化」は資金の流れを変えるはたらきをしない。この2点だけでも、政府の政策は整合性を欠いており、意図する政策が実現することはありえない。
←国民資産を守るために,ワンクリック!
(II部に続く)
http://eritokyo.jp/independent/nagano-pref/kawamiya-aoki-col001.html
転載 from 独立系メディア 今日のコラム
郵貯・簡保の自然縮小と
国家財政基盤の崩壊
~郵政「民営化」幻想の勝利
-不可避となった財政破綻~
河宮信郎・青木秀和
掲載日2005.10.9
「郵政民営化によって資金を民に回し、経済を活性化する」という小泉・竹中構想が喧伝されてきた。
いわば「金融民活」論である。この構想に、小泉政権だけでなく、マスコミ編集者、経済評論家から、金融部門を含む財界や経済学者(の一部)まで期待を寄せているようにみえる。
政権に挑んだ民主党も、本心は民営化に賛成で「預金規模の圧縮を先行させよ」という注文をつけただけであった。
「郵政民営化」の方針そのものに反対したのは自民の造反組と共・社だけであった。有権者には「民営化反対」の選択肢がほぼ閉ざされていた。
しかし、この「郵政民営化」構想は救いがたい自己矛盾を抱えている。というのは、もし「官」が「民」の資金を吸い上げるのがわるいとすると、「官の長」である政府が民の資金を吸い上げることもわるいはずである。
ところが、小泉政権は大量に「民」の資金を吸い上げてきた。在任4年間に、146兆円の国債を発行し、06年度の予定も合わせると180兆円になる(このほかにドル買い用の短期国債を大量に発行した)。
要するに小泉首相は、「日本一の借金王」と称した小淵恵三元首相以上に「民資」を吸い上げてきた。その当事者が「官(政府)に資金を回すな」と主張している。
政府は「民資」の大量吸収、すなわち「官の悪」と自分が攻撃する政策をまる4年間続けてきた。なんの「改革」もしなかったのはなぜか。
現に「実行中の政策」と正反対の方針を、「政策目標」として掲げることが許されるのか。またその「目標」を選挙民が「現実の施政と反対だ」と気づかずに支持してしまったら、政治はどうなるのか。
要するに、現実の施政は「民資の大量吸収」、改革の目標は「民への資金還流」、そのための手段が「郵政民営化」である。この「三つ巴」が互いに矛盾しているのである。三項の相互矛盾は、なにに起因し、どのような財政・金融問題を惹き起こすのか。
本稿では、「郵政民営化による経済活性化」論が壮大な共同幻想であり、じつは財政破綻の危機を秘めた「パンドラの箱」であることを明らかにしたい。「郵政民営化」法の成立・施行を待つ間にも、政府の資金欠乏、国債の消化困難が顕在化すると思われる。
Ⅰ部 「郵政」の本質-税外の政府収入
「郵営国家」の構造と問題点
そもそも「郵政」とはなんであり、なぜそれが財政と不可分なのか。これを明らかにするには、「創設以降今日まで、郵政がどのような歴史的役割を果してきたのか」を問わなければならない。折しも、郵貯・簡保の資金収縮が始まった。
「改革」に先行して「官」への資金供給力が急に細った。このこと自体、郵政130年の歴史的総括を迫る変動である。
郵政の歴史を、戦前・戦中史(1875-1945)70年の第一ラウンドと戦後史(1946-2016)70年の第二ラウンドに分けて考えよう。
前者は、明治期の郵貯創設から第二次大戦期の「戦時財投」による壮絶な破産までである。戦後史は、敗戦の灰塵のなか、預金封鎖と破綻処理から再出発してから今回の「民営化」問題決着までである。中間点の破綻・再出発から60年経ったいま、改めて郵政の存亡が問われるに至った。
★1 郵政事業の本質
「民の貯蓄」を「官の収入」に転化
「郵政改革」の核心は、資金額334兆円の「郵貯・簡保をどうするか」である。郵政3事業というが、郵貯214兆円・簡保119兆円と郵便事業とでは事業規模に2桁の差がある。
郵便事業と郵便局窓口は、公共サービスとして市民生活との関連が深いが、事業規模は数兆円、郵貯・簡保からの補助金で成り立つ(郵便事業は、1871年に江戸時代の飛脚制度を取り込んでつくられた)。
郵貯預金や簡保契約は、本来預金者や契約者(民)の「個人資産」である。この段階では銀行・生保と同じである。しかし、この後の運用が異なる。政府が国債という借金証文を郵政当局にわたし、金は政府が受け取る。政府は得た現金をそのまま税金と同じように使うことができる(財政投融資制度、財投)。
すなわち、政府(官)にとってはこの金(公的資金)は「税外の国庫収入」になる。
結局、「郵貯・簡保-財投」のセットは、「民の貯蓄」を「官の収入」に変える変換システムである。このシステムのおかげで、官(政府)は民から「借りた金」を「もらった金」のように使うことができる。
郵貯・簡保は、戦前から一貫して国債の消化機構であった(簡保の創設は大正時代、1916年)、むしろそのためにつくられたといってもよい。なお、簡保資金は大蔵省への預託を義務づけられていなかったが(「自主運用」制度)、大蔵省の預託金運用をまねた資金運用をしていたので、一括して扱う。
結局郵政は、債務者の政府が健全であれば成り立つが、不健全であれば破綻する。国家信用のもとは政府の「徴税能力」である。この「能力」の限界は国民の税負担力(対GDPで1/3程度)である。
ところが、歴史的な困難期には、政府がやみくもに国債を発行して、国民の税負担力を超えるところまで行く。これが、郵貯・簡保破綻の究極の原因である。
★2 創設から「戦時財投」の破産まで
戦前・戦中史(1875-1945)
日清・日露戦争から第一次大戦そして第二次大戦に至る戦費の調達、つまり戦時国債の購入に郵貯・簡保の資金が総動員された。政府が全戦費を税金でまかなおうとしたら、いかに軍国主義的に教育された国民でも怒る。大戦争では、全所得を徴収しても足りないからである。戦費は、「借り倒し」を前提とした借金でまかなうしかない。
各戦争における総戦費と一般会計歳出(通常の政府予算)の比をとると、日清戦争で 3.74倍、日露戦争で 4.15倍、日中/太平洋戦争で 9.16倍であった。
今次大戦では、戦費を郵貯・簡保・年金、銀行・生保からの借り入れと国債の日銀引き受けでまかなった。
郵貯・簡保・年金基金はあげて戦時財投にまわされ、すべて消尽した。郵政資金で造った兵器は太平洋の藻屑となり、軍需工場は空襲で破壊された[『数字でみる日本の100年』国勢社、1991、10章]。
戦争継続の財政基盤は税金よりも郵貯・簡保に依存していた。そこを経由して、政府が国民に払った金がまた政府に戻るからである。たとえば、兵士の給与が「軍事郵便貯金」に入ると、戦時国債を経て、兵器生産や兵士給与(本人分を含む)に回った。
これでは兵士が自費で戦争していたようなものではないか。税金ではこのような二重三重の使い回しはできない。
敗戦で戦時財投は当然返済不能になり、郵貯・簡保も破産した。じつをいうと、この「破産」は開戦前、軍需投資にフル動員された時点(1930年頃)ですでに運命づけられていた。
政府・軍部は、「返せなくなった」と告白して国民に謝罪するか、戦争拡大というバクチに賭けるか、の二者択一に追い込まれていたといえる。前者なら、国民は預金損失を被るにせよ、命まで失うことはなかったはずである。
実際は、破産した債務者(政府・軍部)が、債権者(預金者・国民)に謝るかわりに、「国(政府・軍部)のために死ね」と命令したのである。
★3 敗戦後の破綻・清算と再建(1946-1950)
戦時国債は本来的に「不良債権」である。戦争に使った金を政府に返せと請求しても返せるわけがない。つまり、政府(債務者)は債務不履行に陥る。
その結果、債権者である郵政、その債権者である預金者は預金を失う。この状況は敗戦前から不可避であった。しかし、戦争中はまだ政府信用の幻想が崩れない。敗戦で政府の無能・無責任が露呈するときに、国債が紙屑であることが白日のもとにさらされる。
郵貯・簡保の資産は「対政府債権」であるから、その価値は「債務者・政府」の信用(徴税能力)で決まる。もっとも国債額が国民の税負担力を超えると、自動的に(客観的な)債務不履行の状態になる。
しかし、「政府信用の幻想」が続く間は郵貯・簡保も無事である。郵貯・簡保の「破綻」は、政府の信用というより信用の幻想が崩れた瞬間に起こった。
あとに残った問題は、政府の「債務切り捨て」、つまり預金者の貯金収奪をどうやるかということであった。日本政府は、旧植民地住民、零細預金者など弱いところにほど重い損失負担、つまり全額ないし高率の不払いを課した。
他方では、軍需企業など財投資金の借り手に対しては債権放棄(返還免除)という恩典を与えた。零細預金者に不利、高額預金者や財投受益者に有利な破綻処理を企んだ。そのうえで、預金封鎖(引き出し規制)と新円切り換え、インフレによる減価を組み合わせて、ようやく累積債務を清算した[グループKIKI『どうして郵貯がいけないの』北斗出版、1993年、1章]。
このような理不尽な破綻処理が、敗戦後の混乱と占領軍の強権のもとで強行された。当然ながら、郵貯・簡保の信用も地に落ちた。信用回復・郵貯・簡保再建のために、政府は一般会計からの補償(税金による支払い保証)を含む信用保証の制度を設けた。
債務者の政府が、債権者である郵貯・簡保の債権を保証する制度である。保証人(政府)の支払能力には保証がないが、ともかくこれで郵貯・簡保は信用を回復した(現在まで継続)。
なお、占領軍による戦後処理の一環として、郵貯・簡保財政投融資も「民主化」の対象となったが、これが「非軍事化」でよしとされた。
その結果、旧陸海軍部がもっていた財投配分権を、大蔵省(現財務省)が一手に受け継いだ[竹原憲雄『戦後日本の財政投融資』文真堂 1988]。敗戦日本のなかで大蔵省は唯一「勝利者」であったといえる。もし大蔵省が旧軍部のモラル(の欠如)まで受け継いでいたとしたら、日本の郵政・財投は同じ過ちを繰り返しかねない。
このときの郵貯・簡保の「破綻処理」はどこがわるかったのか。それは、「債務者」である政府が恣意的な「預金切り捨て」をやったことである。通常の破産処理であれば、「債権者」(預金者・国民)が債務者(政府・旧軍事部門)に対して「破産管財人」としてのぞみ、債権の保全・回収・放棄のやり方を指示する。
少なくとも、債権者間の平等を確保するだけでも格段に公正な破綻処理になったはずである。「債務者・政府による破産管財」が許されない。この原則を、今後政府破産・郵貯・簡保整理が起こる場合にも適用する必要がある。
★4 郵貯・簡保資金の成長と
公共投資の拡大(1951-1974)
再生した郵貯・簡保は、敗戦後の復興、大規模公共事業、財政赤字の補填、金融破綻の処理など多岐にわたる政府支出を担ってきた。60年代まで、郵貯・簡保は、社会的効用の高い都市基盤、産業基盤の整備に低利の融資金を供給する効果的な金融システムとして機能したといえる。敗戦日本の復興を牽引した功績はある。
この「実績」に立って「政官業」利権複合体が確立し、やがて壮大な「無駄遣いシステム」に肥大した。最初から「悪」だったらここまで大きくはなれなかったであろう。
ところが、ダム建設や公団住宅建設、鉄道電化・新幹線網・高速道路網の整備など社会インフラの整備が進むにつれて、こういう公共建設部門は縮小されるべきであった。
西欧諸国ではこの経過を辿った。つまり公共投資の必要性が減るにつれて、公共工事の規模も縮小された。現在、これらの国では公共投資の対GDP比は日本のほぼ半分である。
(なお、アメリカは特殊で、必要不可欠な公共投資もやめて「軍事投資」に集中した。05年8月のハリケーン被害はその結果である。「民営」主義国家の末期症状である。)
ところが、日本では逆に、不要不急の大規模公共事業が止めどなく拡大した。なぜか。郵貯・簡保に「過剰な資金」が溜まり、それを「公共投資」に使える制度があり、そのような政策が続けられたからである。
80年代まで続いた所得水準の向上とそれを標的にした利用限度額の引き上げで、郵貯・簡保は銀行・生保を圧倒する集金力を獲得した。郵貯・簡保と年金基金の3機関に溜まる資金が、民間の銀行に溜まる全資金量と拮抗しうるようになった。
大蔵省(当時)は郵政資金、つまり税収なみの「税外国庫収入」を得て、これを是が非でも「運用」すべき立場に立った。あり余る金をどう使うかに苦慮することになった。
しかし、「この金を返済不能な貸し付け」に使ってはならないというのが、戦前史からの教訓であったはずである。しかし、財投運用先の是非が問われることはなく、大蔵省は専権的にこのような運用を続けた。
★5 財政投融資の腐敗から
地価バブルへ(1975-1990)2005.09.20
郵貯・簡保に集まる金を使い切るのが財投の役割となると、大規模な建設工事に投じるのが最も能率的である。1980年に18兆円を超え(1人当たり約18万円)、なお増えつづける財投資金を大蔵省の資金運用部(理財局)が使い切るのは大変だったにちがいない。
建設省(当時)は「大量無駄遣い」の起案能力で他省庁を圧し、大蔵省の“頼もしい盟友”となった。長良川河口堰(1800億円)、諫早湾干拓(2500億円)、徳山ダム(3000億円)など、環境破壊だけで効用ゼロの工事が、もっぱら「資金需要大(高コスト)」という理由で採択されたのではないか。この段階で、「財投使途の有効性や返済可能性を問わない」というモラルハザードが全開になったように思われる。
ところが、無制限な乱費に耐えると思われた財投が、不採算な建設投資の累積で、「財投対象機関」の財政を圧迫しはじめた。財投対象機関とは、旧国鉄などの特殊法人、地方自治体、ついで政府、つまり大規模な公的組織すべてである。この1980年代初頭の時点で、財投総体、郵貯・簡保のありかたが問われるべきだった。
個々の財投受け入れ機関は「返済義務」を免れない。だから、不採算な巨大投資をすれば、返済義務で首が回らなくなる。国鉄(旧)が38兆円の累積債務を抱えて倒産したとき、それは「財投という仕組み」総体の破綻を意味していた。
不採算の巨大建設工事(国鉄の場合は赤字地方線建設)を「政官業」の共謀で推進した。これは経済合理性を欠いており、その欠陥が露呈したのである。国鉄の状況は、すべての財投対象機関の先駆けであり典型であった。したがって、ここでは国鉄1社ではなく「郵政と財投」そのものが問われていた。
ところが、事態はあるべき方向とは逆に展開した。国鉄だけがわるい、とりわけ「国鉄労組がわるい」かのような攻撃キャンペーンが張られた。なお、これは「郵政民営化」論議における「郵便局員バッシング」の先例である。中曾根政権は、国鉄1社をスケープゴートにして「行革の目玉」とし、その裏で他の財投機関の無駄遣いを隠蔽し免責した。
国鉄「民営化」(1986年)、「国鉄清算」(1997年)の裏でなにがあったか。「民営化」に必要な資金はすべて財投資金(郵貯・簡保等)でまかなわれた。そもそも国鉄への「過大な不採算融資」自体が、郵貯・簡保資金で行われた。そこで生じた累積損失(国鉄清算事業団の残債27兆円)をさらに、郵貯・簡保の資金で埋めた[河宮信郎・青木秀和『公共政策の倫理学』丸善、2002、10章]。
要するに、郵貯預金者の金を不採算の投融資に充て、そこで生じた損失をさらに預金者の金で補填したということになる。預金者(真の債権者)からいうと、これは預金の横領であり、取り込み詐欺である。しかし、「これは許せない、あくまで返せ」といったら、JR各社は再倒産に追い込まれる。ここからわかるように「民営化」の核心は「損失転嫁」、累積赤字の「国有化」にある。
この損失転嫁が累積損失を引き受けるところ(郵貯・簡保)があってはじめて、「民営化」がなりたつ。赤字の国有化によって政府(の債務)規模はその分だけ大きくなる。旧国鉄1社の民営化で、政府は27兆円も大きくなった。
中曾根政権は、財投全般の無駄遣い体制を温存したうえ、さらに「民活」による「無駄遣い」を誘導した。「不採算な巨大開発」のために、財投資金だけではなく、民間資本も巻き込もうという政策であった。第三セクター方式と呼ばれる公共開発の新しい手段(官民共同出資の企業体)を法的に整備した。これが爆発的な開発ブームを巻き起こし、「土地・株式バブル」にまで突き進むことになった。
1980年代後半の地価・株価バブルを牽引したのは投機的開発による地価騰貴である。本来、営利・採算にさといはずの民間企業が「採算性のない巨大開発」に殺到したのはなぜか。それは長年にわたり、財投資金が「採算性を度外視した巨大開発」を可能にし、そこで建設関連業界に甘い汁を吸わせてきたからであろう。「官」からの資金補助が出る事業なら、自動的に採算が保証されると思い込んだのではないか。
じつはその反対である。もともと採算性がないところこそ財投資金の出番だったといえる。採算無視の開発を推進してきた主役は、大蔵省・建設省コンビであった。ところが、この第三セクター方式では自治体に「開発投機」のチャンスが与えられた。全国の自治体がこぞって「三セク」投機に走り、その結末のバブル崩壊とともに財政危機に陥った(cf. 自治体の公債依存率)。
この損失補填にも財投資金が投じられ、最終的には財投による特殊法人や地方自治体に対する融資の大半が不良債権化しているという指摘がある。
慶応義塾大学の土居丈朗助教授によると、これら財投機関への融資357兆円のうち、267兆円(75%)が不良債権化しているという[“特殊法人「不良債権」の実態”『文芸春秋』2003年3月号]。なおこれは、国債自体は不良債権でないとみなす範囲での試算である。
「バブル、つまり協同現象的な過剰投資」は「はじけた」のが悪いのではなく、「起こした」ことが悪い。日本経済の超長期的低迷を運命づけたのは中曾根政権である。
★9 地価バブルの崩壊から
国債バブルへの転落(1991-)
80年代の地価バブルは政府が下地をつくった。財投・民活・低金利政策の三点セットで、政府・自治体が開発ブームを先導し、地価つり上げを誘発した。地価・株価バブルの崩壊で、金融部門総体が壊滅的な打撃を受けた。
この歴史的な失政で生じた金融不安と長期不況への対策に、政府は無制限と思われるほどの国公債増発で応じた。この「国債バブル」が第二の失政である。とくに2008年から国債返済の負担が破局的な規模に達する。
銀行・生保・証券会社の動揺を尻目に、90年代の郵貯・簡保は一見順調に資金を増やした。この資金が国債バブルに総動員され、その余得で民間金融機関が救済された。
「民」(金融・建設・不動産業)が郵政資金(官)に救済を求めたことは、民(金融機関)が自らの非効率的かつ無責任な資金運用の責任をとれなかったことを意味する。自己責任を全うしえない点で「官」と同じなのである。救済に投じられた「公的資金」の実体は、預金者の「私的資産」であり、公的資金の減耗は預金者の資産の毀損であった。
バブル崩壊以後の財政の実態をみるためには、年々の収支よりも累積した結果をみるほうがわかりやすい。たとえば、国債は1990年166兆円、2005年度末で538兆円である。バブル破綻以後、372兆円増えた。そのうち313兆円は1995年から2005年の間に増えた。地方債を合わせると、ここからさらに4割増える。
国・地方を合わせた一般政府債務は774兆円になる(05年3月)。10年余でGDP相当の500兆円以上増えた勘定である。このほかに年金支払いの政府債務730兆円のうち、430兆円は財源が確保されていない。そして、すでに積み立てた基金140兆円も財投に回って不良債権化している。
これだけの資金を「官(政府・自治体)」が「民」から吸い上げた。しかも、郵貯・簡保および年金基金だけでなく、銀行・生保等を通して民間からも吸い上げている。経由する機関が国営であれ民営であれ差はない。実際国債保有高でみると、郵貯・簡保、年金などから213兆円、銀行・生保など民間金融機関から229兆円を借りている。民間金融機関からの借入のほうが多いのである。
つまり、郵政という資金経路が「民」に転換したら、政府はそこから資金を吸い上げるだけの話である。最終的な資金需要(財政赤字)を満たすために、政府は官民を問わず、あらゆる金融機関を資金調達の対象としてきた。この点では、郵貯民営化は「資金の民間還流」にさえ役立たない。
問題解決に役立たない。「郵政改革」はあらゆる「構造改革」の要となるどころか、問題解決に役立たない。
ともかく、歴代政府はこれだけの民間資金を吸い上げており、小泉政権もそれを継続し加速した。政府が実施中の政策とは反対の「政策目標」を掲げることは常軌を逸している。そして、政府が自分の財政基盤となってきた郵政を「ぶっこわす」と叫んでいる。
しかもそれで人気を博している。要するに、「民の資金を民に回す」という改革目標は、小泉政権の現実の施政と反対である。さらに「郵政民営化」は資金の流れを変えるはたらきをしない。この2点だけでも、政府の政策は整合性を欠いており、意図する政策が実現することはありえない。
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(II部に続く)
by exod-US
| 2005-10-09 16:30
| 郵政をユダヤ資本から取り戻せ