2005年 10月 03日
共謀罪とは何か=何も罪を犯していない人を立証不能な架空の罪状によって処罰することができる超法規的法令
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共謀罪とは何か?それは,未だ何の罪を犯してもいない人間を,仮想的な事前の計画ないし陰謀に基づく立証不能な架空の罪状によって処罰することができるという超法規的法令である.この「罪状」は単に仮想的な計画を模擬(シミュレーション)することによってしか検証(トレース)することができないという意味で,ニ重にも三重にも架空のもの(フィクション)でしかない.通常の刑事裁判では最初に「罪状認否」が行われる.しかし,仮にある人がある「謀議」に加わっていたとしても,何の実行行為も伴わない罪状を認否することは本人にすら不可能である.どこの誰が起こってもいないことを「認否する」ことができるだろう?
確かに,そのような「謀議を行ったこと」が事実であるか否かを検分することは不可能ではない.しかし,それはあくまでも謀議であり,未だ各人の頭にそれぞれ異なる濃淡で宿ったある種の空想でしかない.空想と現実を混同することが許されるのなら,革命なぞとっくの昔に実現されていたはずだし,あらゆるユートピアンは自己の夢想に責任を負わなくてはならないことになる.私自身について言わせてもらえば,私はいまだかつて物事が私の計画通り行ったことは一度もない.というより,おおよそ何かを「計画すると失敗する」というのが私の処世訓のベースである.
もし,上で述べていることがよく分からないという人があるなら,結婚という共謀を考えてみてはどうか?真紅の絨緞を敷き詰めたバージンロードを歩み,聖書台の前で誓いのキスを交わすことが,ある謀議つまり,ある共同計画についての誓約であったとしても,それが一体何の謀議であったのかはおそらく最後の最後まで不分明である.かのロシアの文豪のよく知られた最後(1910年)を想起するがよい.トルストイは82歳のとき家出(徘徊老人?)して3週間後にとある小さな駅のベンチで凍死しているのを発見された.(ちなみにトルストイは普通の日記と秘密の日記を付けていたそうで,秘密の日記を妻に見られてしまったのが家を出る原因だったとか.)
翻ってこのような仮想的計画に基づいて人を処罰することができるとしたら,国家ないし地方の司法警察には恐るべき恣意性と神に似た絶対性が付与されることになるのは必然である.我々のすでに十分腐敗した司法警察にそれほどの絶対権力を与えたら,どのようなことが起こるか?想像してみるがよい.おそらく最強の想像力を備えた小説家(たとえばH.G.ウェルズ)の想像すら超える超リアルな世界が出現することになるだろう.
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。もしあなたの右の目が罪を犯させるのなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。――マタイによる福音書第5章28-29
「女を見ただけで姦淫したことになる」というイエスの言葉はあまりに過激というか,誇張に過ぎると思うだろうか?では,あなたの前に女性が座っていたとしてみよう.もちろん立っていてもよいのだが.あなたのよく知っている人でもよいし,赤の他人でもよい.話をしているかもしれないし,かなり離れているのを眺めているだけかもしれない.あなたはふと情欲を覚え,その女性を視線によって「スキャン」するだろう.あなたの視線は暗視カメラのように彼女の衣装を侵略し,解き放たれた想像力はもぎ取った果実を奔放に味わい尽くそうとするかもしれない.それは控え目でかなり抽象的なものであるかもしれないが,かなり露骨なものである場合も有り得るだろう.つまり,あなたはあなたの目でその女性を犯している可能性がある.
イエスはヨハネが捕縛されたのを聞いてガリラヤに退かれた後,その地で多くの不思議を行いまた人々に教えを述べ伝えたが,シリア・ヨルダン・エルサレムなどの各地からおびただしい人々が集まってイエスに従ったので,彼らとともに山に登りそこで山上の垂訓と呼ばれる有名な説教を行った.上記の言明はそのときの一節である.私はできればこの教えを受け入れたいと希求する.しかし,これを法令によって強制されるのなら私は拒否せざるを得ない.もし,情欲をいだいて女を見るだけで罰せられることがあるとしたら,一体罰を免れる人がこの地上に一人でも存在するだろうか?そのような罪を完全に免れた全ったき人などこの世に存在しないことは,聖書の中の次の記述からも明らかであろう.
イエスはオリブ山に行かれた。朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄りから始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。そこでイエスは身を起こして女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。――ヨハネによる福音書第8章2-11
一般にはここに登場する女性をマグダラのマリアと同定する解釈が支配的であるようだ.この女が,言われているように娼婦であるという記述は存在しない.またマグダラのマリアとこの女を結びつける記述もどこにもないのだが,それはともかくとして,マグダラのマリアは人を裁くことの道義的権限に対する深い反省を呼び起こすキーワードになっていると言えよう.一方山上の垂訓に現れるのはそのもう一方の極にある「心に思っただけですでに罪を犯しているとする」峻厳な神(イエス)の裁きである.共謀罪がときに『神の刑罰』と呼ばれるのは,共謀罪が定義する罪と罰の応報関係がこのような超越的・超俗界的な性格を有することによる.
人を嫉むとすればそこには邪まな心があり,人の所有物を欲しがること,つまり不当な手段で(たとえば奪ってでも)手に入れたいと「考えること」 はそれ自体(神の前では)罪である.しかし,俗界では実際に手を出してそれを奪わない限り犯罪を構成しないというのが,近代法理論における確立したルールである.もうひとつの傍証としてトルストイのクロイツェル・ソナタを引きたいのだが,今手元に書籍が無いので,下記の「削除されたため出典不詳のHP(Googleのキャッシュ)より。」という断り書きの付いた断章を引用することにしよう.(与太郎文庫 )
── (略) ロシアの文豪トルストイの作品に「クロイツェル・ソナタ」という中篇小説があります。同じ列車の座席に乗り合わせた男性が、自分の過去について告白し、それをもう一人の男性が聞くというかたちで小説は進行します。一人称で淡々と語られるその話の中で、男性は妻を殺したと言います。男性と妻の間はあまりしっくりいってなくて、夫婦間に葛藤があります。そんなある日、妻のピアノの合奏の相手として、一人のヴァイオリニストが出入りするようになります。ふたりが楽しそうに合奏する様を見ながら、この男性は激しい嫉妬にかられます。しかしまだ、ふたりが簡単な曲を演奏していたときは、この男性の嫉妬は現実と妄想の狭間でもがいていました。しかし、ある日ふたりが情熱的に「クロイツェル・ソナタ」を演奏しているのを聴いた男性は、ヴァイオリンとピアノのかけあいの中に、ふたりの必要以上の親密さを感じとり、嫉妬のため逆上し、妄想を現実と置きかえ、そして妻を殺してしまいます。トルストイの小説は、この男性の妻に対する疑い、激しく突きあげてくる嫉妬、妄想にかられる苦しさなど、人間の持つ感情の中で、最も人を苦しめる心理の変遷を、「クロイツェル・ソナタ」の曲の持つ恐ろしさとともに、描きだしています。(略)── sp.daren57.com/tc/koyou5/snake/violin3-1.html
私はあえて断言しよう,トルストイは少なくとも一度は「妻を殺したい」と考えたことがあったのであると.もちろん,それを検証することはできないし,また仮にそれが事実であれ,下衆の勘ぐりであれ,この小説の文学としての価値はそれとは独立であることだけは間違いない.しかし,もしここに「立証不能な罪状によって計画を罰することのできる法令」があったらどうなるか?トルストイの「妻殺しの妄想」は「刑事罰」に相当するものであるのか,それともそれは「芸術」に昇華することによって浄化ないし無化されるべきものとしてトルストイを強襲した激情であったのか?もしここで,トルストイが小説家として,また1個の人間として刑事罰から免責されることがあるとしたら(常識はそれを許すと言っておこう),まして思想・信条の自由と共謀罪とが相容れないことを証明するのに何か困難があるだろうか?
共謀罪が適用される罪名は当初557種と言われていたが,現在は620種におよぶことが確認されている.たとえば,もしあなたが税理士に「何か税金を軽くする方法はないか」と相談すれば,地方税法ないし相続税法「違反」に抵触し,「相談したという事実だけで」共謀罪に問われる可能性がある.実にステキなことを考え出したものである.(「違反に抵触し」という語法が変則的であることはもとより自覚されている.しかし,「税法には違反していない」のであるから,こう述べるしかないではないか!アブノーマルなのは私ではなく法案の方である.)
「共謀罪とは何か」については,「治安国家」拒否宣言という本の中の一章で弁護士の山下幸夫氏が分かりやすく解説されているので,紐解かれるがよかろう.晶文社のサイトにはこの一章が「立ち読み」として公開されているが,このブログにも無断収録させて頂いた.自由法曹団のパンフレット「共謀罪 ―5つの質問―」は,Q&A形式で読み易く,実際の事例などを交えた詳しい解説がある.
ここでは,何で突然のように(知らなかったのは私だけか!)こんなものが出てきたのか?その背景を考えたい.共謀罪の新設は,国連が2000年に採択し、日本が2003年に批准した「越境組織犯罪防止条約」のための国内法整備に当たる.同条約は1994年、「越境性」のある国際マフィアによる銃器や麻薬の密輸取り締まり,マネーロンダリングの防止などを目的にナポリ閣僚会議で提起されたものである.しかし,共謀罪の規定からは「組織犯罪」,「越境性」などの要件がすっぽり抜け落ちて,水道法や消費税法違反などまでを含む一般の国内法違反を包括する予防検束的治安立法に変質してしまっている.驚くべきことに2005年の通常国会の衆議院法務委員会で政府側から提出された国際条約の交渉過程を記録した資料(A4で2000枚)の大半は墨で塗りつぶされていた.(北海道新聞,2005-07-22)
条約が発効するためには40ヶ国の批准が必要とされているが,2002年末で142ヶ国が署名し,うち26ヶ国が批准.G8諸国で批准したのはカナダ一国に留まる※.日本政府は当初,実行行為を裁く近代刑法の原則を重視し「共謀または予備の諸行為を犯罪化することは,わが法制度に首尾一貫しない」(99年3月の政府間特別会合)と条約批准には消極的だったのだが,ある時点から一転して積極派に転換する.(東京新聞,2005-07-06) このモメンタムをなしたのは2001年9月11日に起きたいわゆる「同時多発テロ事件」である.
911がイラク戦争の発端になったのとまったく同じ筋書きで,つまり「反テロリズム戦争」というキャッチフレーズのもとに,この共謀罪新設という「陰謀」が進行しているのである.それは,小泉ファッショ政権の郵政改革がアメリカの年次改革要望書に完全に沿った形で進められたのとまったく同じ一枚の絵図(曼荼羅ないし地獄絵)の写しである.さまざまな国際謀略が次第に暴かれつつあるが,それら特殊工作の資金源のかなりの部分が麻薬取引など国際マフィアの活動と密接に関わっていることが知られている.本来はこうした非合法な越境組織犯罪防止のために生まれた国際条約がいつの間にか政治犯罪・国家犯罪の基盤整備の役割を担うことになってしまったとすれば,これほど倒錯した悲劇的事態は想像できない.今国民の大覚醒がなければ,もはや時は無いということが骨身に沁みて理解されなくてはならない.
※国際組織犯罪防止条約は,2000年11月の国連総会において全会一致で採択され,同年12月のパレルモにおける条約署名会議において日本を含む約120ヶ国が署名.2003年9月に発効した.2005年6月時点の署名国は147ヶ国,締約国は106ヶ国.フランス,カナダ,ロシアは締結済みで,アメリカ,イギリス,ドイツ,イタリアは締結に向けて準備中.
【参考リンク】
共謀罪が適用される法律名・罪名
国連「越境組織犯罪条約」締結にともなう国内法整備に関する意見書 (日弁連)
話し合うことが罪になる 共謀罪の新設に反対する市民団体共同声明
権力の弾圧と闘う救援連絡センター
共同行動ONLINE
なぜ共謀罪に反対するのか (盗聴法・組対法に反対する市民連絡会)
意見書:「共謀罪」の創設に反対する (自由法曹団)
【参考リンク:追加】
あなたを襲う3つの恐怖 (とりあえずガスパーチョ)
今しか書けない「共謀罪」バトン (たまごの距離)
拡大解釈、すでにしてるじゃん、政府――共謀罪 (たまごの距離)
法務委員会に提出された国際組織犯罪防止条約の交渉過程記録は墨で塗り潰されていた
あなた見られてます 監視と安全のはざまで <上・中・下> (北海道新聞,2005,07-21)
危険な共謀罪 (自由ネコ通信)
悪法共謀罪の危険度 (あくてぃぶ・そなあ)
「共謀罪」って..なんだ
共謀罪・メディア規制・改憲論議… 『現代の風潮』に憂い 横浜事件 (東京新聞)
←ワンクリックで法案を廃案に!
確かに,そのような「謀議を行ったこと」が事実であるか否かを検分することは不可能ではない.しかし,それはあくまでも謀議であり,未だ各人の頭にそれぞれ異なる濃淡で宿ったある種の空想でしかない.空想と現実を混同することが許されるのなら,革命なぞとっくの昔に実現されていたはずだし,あらゆるユートピアンは自己の夢想に責任を負わなくてはならないことになる.私自身について言わせてもらえば,私はいまだかつて物事が私の計画通り行ったことは一度もない.というより,おおよそ何かを「計画すると失敗する」というのが私の処世訓のベースである.
もし,上で述べていることがよく分からないという人があるなら,結婚という共謀を考えてみてはどうか?真紅の絨緞を敷き詰めたバージンロードを歩み,聖書台の前で誓いのキスを交わすことが,ある謀議つまり,ある共同計画についての誓約であったとしても,それが一体何の謀議であったのかはおそらく最後の最後まで不分明である.かのロシアの文豪のよく知られた最後(1910年)を想起するがよい.トルストイは82歳のとき家出(徘徊老人?)して3週間後にとある小さな駅のベンチで凍死しているのを発見された.(ちなみにトルストイは普通の日記と秘密の日記を付けていたそうで,秘密の日記を妻に見られてしまったのが家を出る原因だったとか.)
翻ってこのような仮想的計画に基づいて人を処罰することができるとしたら,国家ないし地方の司法警察には恐るべき恣意性と神に似た絶対性が付与されることになるのは必然である.我々のすでに十分腐敗した司法警察にそれほどの絶対権力を与えたら,どのようなことが起こるか?想像してみるがよい.おそらく最強の想像力を備えた小説家(たとえばH.G.ウェルズ)の想像すら超える超リアルな世界が出現することになるだろう.
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。もしあなたの右の目が罪を犯させるのなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。――マタイによる福音書第5章28-29
「女を見ただけで姦淫したことになる」というイエスの言葉はあまりに過激というか,誇張に過ぎると思うだろうか?では,あなたの前に女性が座っていたとしてみよう.もちろん立っていてもよいのだが.あなたのよく知っている人でもよいし,赤の他人でもよい.話をしているかもしれないし,かなり離れているのを眺めているだけかもしれない.あなたはふと情欲を覚え,その女性を視線によって「スキャン」するだろう.あなたの視線は暗視カメラのように彼女の衣装を侵略し,解き放たれた想像力はもぎ取った果実を奔放に味わい尽くそうとするかもしれない.それは控え目でかなり抽象的なものであるかもしれないが,かなり露骨なものである場合も有り得るだろう.つまり,あなたはあなたの目でその女性を犯している可能性がある.
イエスはヨハネが捕縛されたのを聞いてガリラヤに退かれた後,その地で多くの不思議を行いまた人々に教えを述べ伝えたが,シリア・ヨルダン・エルサレムなどの各地からおびただしい人々が集まってイエスに従ったので,彼らとともに山に登りそこで山上の垂訓と呼ばれる有名な説教を行った.上記の言明はそのときの一節である.私はできればこの教えを受け入れたいと希求する.しかし,これを法令によって強制されるのなら私は拒否せざるを得ない.もし,情欲をいだいて女を見るだけで罰せられることがあるとしたら,一体罰を免れる人がこの地上に一人でも存在するだろうか?そのような罪を完全に免れた全ったき人などこの世に存在しないことは,聖書の中の次の記述からも明らかであろう.
イエスはオリブ山に行かれた。朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄りから始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。そこでイエスは身を起こして女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。――ヨハネによる福音書第8章2-11
一般にはここに登場する女性をマグダラのマリアと同定する解釈が支配的であるようだ.この女が,言われているように娼婦であるという記述は存在しない.またマグダラのマリアとこの女を結びつける記述もどこにもないのだが,それはともかくとして,マグダラのマリアは人を裁くことの道義的権限に対する深い反省を呼び起こすキーワードになっていると言えよう.一方山上の垂訓に現れるのはそのもう一方の極にある「心に思っただけですでに罪を犯しているとする」峻厳な神(イエス)の裁きである.共謀罪がときに『神の刑罰』と呼ばれるのは,共謀罪が定義する罪と罰の応報関係がこのような超越的・超俗界的な性格を有することによる.
人を嫉むとすればそこには邪まな心があり,人の所有物を欲しがること,つまり不当な手段で(たとえば奪ってでも)手に入れたいと「考えること」 はそれ自体(神の前では)罪である.しかし,俗界では実際に手を出してそれを奪わない限り犯罪を構成しないというのが,近代法理論における確立したルールである.もうひとつの傍証としてトルストイのクロイツェル・ソナタを引きたいのだが,今手元に書籍が無いので,下記の「削除されたため出典不詳のHP(Googleのキャッシュ)より。」という断り書きの付いた断章を引用することにしよう.(与太郎文庫 )
── (略) ロシアの文豪トルストイの作品に「クロイツェル・ソナタ」という中篇小説があります。同じ列車の座席に乗り合わせた男性が、自分の過去について告白し、それをもう一人の男性が聞くというかたちで小説は進行します。一人称で淡々と語られるその話の中で、男性は妻を殺したと言います。男性と妻の間はあまりしっくりいってなくて、夫婦間に葛藤があります。そんなある日、妻のピアノの合奏の相手として、一人のヴァイオリニストが出入りするようになります。ふたりが楽しそうに合奏する様を見ながら、この男性は激しい嫉妬にかられます。しかしまだ、ふたりが簡単な曲を演奏していたときは、この男性の嫉妬は現実と妄想の狭間でもがいていました。しかし、ある日ふたりが情熱的に「クロイツェル・ソナタ」を演奏しているのを聴いた男性は、ヴァイオリンとピアノのかけあいの中に、ふたりの必要以上の親密さを感じとり、嫉妬のため逆上し、妄想を現実と置きかえ、そして妻を殺してしまいます。トルストイの小説は、この男性の妻に対する疑い、激しく突きあげてくる嫉妬、妄想にかられる苦しさなど、人間の持つ感情の中で、最も人を苦しめる心理の変遷を、「クロイツェル・ソナタ」の曲の持つ恐ろしさとともに、描きだしています。(略)── sp.daren57.com/tc/koyou5/snake/violin3-1.html
私はあえて断言しよう,トルストイは少なくとも一度は「妻を殺したい」と考えたことがあったのであると.もちろん,それを検証することはできないし,また仮にそれが事実であれ,下衆の勘ぐりであれ,この小説の文学としての価値はそれとは独立であることだけは間違いない.しかし,もしここに「立証不能な罪状によって計画を罰することのできる法令」があったらどうなるか?トルストイの「妻殺しの妄想」は「刑事罰」に相当するものであるのか,それともそれは「芸術」に昇華することによって浄化ないし無化されるべきものとしてトルストイを強襲した激情であったのか?もしここで,トルストイが小説家として,また1個の人間として刑事罰から免責されることがあるとしたら(常識はそれを許すと言っておこう),まして思想・信条の自由と共謀罪とが相容れないことを証明するのに何か困難があるだろうか?
共謀罪が適用される罪名は当初557種と言われていたが,現在は620種におよぶことが確認されている.たとえば,もしあなたが税理士に「何か税金を軽くする方法はないか」と相談すれば,地方税法ないし相続税法「違反」に抵触し,「相談したという事実だけで」共謀罪に問われる可能性がある.実にステキなことを考え出したものである.(「違反に抵触し」という語法が変則的であることはもとより自覚されている.しかし,「税法には違反していない」のであるから,こう述べるしかないではないか!アブノーマルなのは私ではなく法案の方である.)
「共謀罪とは何か」については,「治安国家」拒否宣言という本の中の一章で弁護士の山下幸夫氏が分かりやすく解説されているので,紐解かれるがよかろう.晶文社のサイトにはこの一章が「立ち読み」として公開されているが,このブログにも無断収録させて頂いた.自由法曹団のパンフレット「共謀罪 ―5つの質問―」は,Q&A形式で読み易く,実際の事例などを交えた詳しい解説がある.
ここでは,何で突然のように(知らなかったのは私だけか!)こんなものが出てきたのか?その背景を考えたい.共謀罪の新設は,国連が2000年に採択し、日本が2003年に批准した「越境組織犯罪防止条約」のための国内法整備に当たる.同条約は1994年、「越境性」のある国際マフィアによる銃器や麻薬の密輸取り締まり,マネーロンダリングの防止などを目的にナポリ閣僚会議で提起されたものである.しかし,共謀罪の規定からは「組織犯罪」,「越境性」などの要件がすっぽり抜け落ちて,水道法や消費税法違反などまでを含む一般の国内法違反を包括する予防検束的治安立法に変質してしまっている.驚くべきことに2005年の通常国会の衆議院法務委員会で政府側から提出された国際条約の交渉過程を記録した資料(A4で2000枚)の大半は墨で塗りつぶされていた.(北海道新聞,2005-07-22)
条約が発効するためには40ヶ国の批准が必要とされているが,2002年末で142ヶ国が署名し,うち26ヶ国が批准.G8諸国で批准したのはカナダ一国に留まる※.日本政府は当初,実行行為を裁く近代刑法の原則を重視し「共謀または予備の諸行為を犯罪化することは,わが法制度に首尾一貫しない」(99年3月の政府間特別会合)と条約批准には消極的だったのだが,ある時点から一転して積極派に転換する.(東京新聞,2005-07-06) このモメンタムをなしたのは2001年9月11日に起きたいわゆる「同時多発テロ事件」である.
911がイラク戦争の発端になったのとまったく同じ筋書きで,つまり「反テロリズム戦争」というキャッチフレーズのもとに,この共謀罪新設という「陰謀」が進行しているのである.それは,小泉ファッショ政権の郵政改革がアメリカの年次改革要望書に完全に沿った形で進められたのとまったく同じ一枚の絵図(曼荼羅ないし地獄絵)の写しである.さまざまな国際謀略が次第に暴かれつつあるが,それら特殊工作の資金源のかなりの部分が麻薬取引など国際マフィアの活動と密接に関わっていることが知られている.本来はこうした非合法な越境組織犯罪防止のために生まれた国際条約がいつの間にか政治犯罪・国家犯罪の基盤整備の役割を担うことになってしまったとすれば,これほど倒錯した悲劇的事態は想像できない.今国民の大覚醒がなければ,もはや時は無いということが骨身に沁みて理解されなくてはならない.
※国際組織犯罪防止条約は,2000年11月の国連総会において全会一致で採択され,同年12月のパレルモにおける条約署名会議において日本を含む約120ヶ国が署名.2003年9月に発効した.2005年6月時点の署名国は147ヶ国,締約国は106ヶ国.フランス,カナダ,ロシアは締結済みで,アメリカ,イギリス,ドイツ,イタリアは締結に向けて準備中.
【参考リンク】
共謀罪が適用される法律名・罪名
国連「越境組織犯罪条約」締結にともなう国内法整備に関する意見書 (日弁連)
話し合うことが罪になる 共謀罪の新設に反対する市民団体共同声明
権力の弾圧と闘う救援連絡センター
共同行動ONLINE
なぜ共謀罪に反対するのか (盗聴法・組対法に反対する市民連絡会)
意見書:「共謀罪」の創設に反対する (自由法曹団)
【参考リンク:追加】
あなたを襲う3つの恐怖 (とりあえずガスパーチョ)
今しか書けない「共謀罪」バトン (たまごの距離)
拡大解釈、すでにしてるじゃん、政府――共謀罪 (たまごの距離)
法務委員会に提出された国際組織犯罪防止条約の交渉過程記録は墨で塗り潰されていた
あなた見られてます 監視と安全のはざまで <上・中・下> (北海道新聞,2005,07-21)
危険な共謀罪 (自由ネコ通信)
悪法共謀罪の危険度 (あくてぃぶ・そなあ)
「共謀罪」って..なんだ
共謀罪・メディア規制・改憲論議… 『現代の風潮』に憂い 横浜事件 (東京新聞)
←ワンクリックで法案を廃案に!
by exod-US
| 2005-10-03 03:23
| 共謀罪という国際陰謀