2003年 02月 02日
転載: 80年代後半からのバブルとその崩壊の真犯人は日本の中央銀行たる日本銀行である by 伊勢雅臣
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The Globe Now: 日本銀行 ~ 現代の「関東軍」!?
日本銀行は、政府の意向にも従わずに、国民経済
を自由に操る実権を握っている!?
■1.「人民の自由にとっての脅威」■
公的に通用するお金を発行する民間中央銀行の存在は、
人民の自由にとって常備軍よりもさらに大きな脅威である。
アメリカ独立宣言の起草者、トーマス・ジェファソンの言葉である。
アメリカ合衆国は大英帝国の圧政から独立しただけに、その指導者たちは人民の自由に関してはことのほか鋭敏だった。
たしかに中央銀行が通貨をコントロールして、自在にインフレを起こしたら、国民の貯蓄は知らないうちに目減りしてしまうわけで、これは私有財産の略奪にあたる。さらに、もし中央銀行がその通貨政策によってバブルを発生させたり、破裂させたりできるとすれば、自由に経営者を破産させたり、従業員を路頭に迷わせたりもできるわけで、たしかに人民の自由にとって「大きな脅威」だと言えよう。
日本経済は80年代後半からのバブルとその崩壊後の苦難の時期が続いている。ドイツ人エコノミスト、リチャード・ヴェルナーの「円の支配者」は日本の中央銀行たる日本銀行こそ、その真犯人であると告発した書である。
■2.金細工師の錬金術■
まず、中央銀行が市中の通貨量をコントロールする方法を見ておこう。ヴェルナーは13世紀のヨーロッパで誕生した紙幣を例にして、次のように巧みな説明をしている。
当時の豊かな商人たちは、金を金細工師に預け、預かり証を受け取っていた。やがて商人たちは、仕入れをして代金を支払う際に、いちいち金の現物を渡さなくとも、預かり証を渡してしまえば良い、と気がついた。こうして金の替わりにその預かり証が商売の決済手段として受け入れられるようになった。この預かり証が紙幣の原型である。
まもなく金細工師は、一つのトリックを思いついた。預かり証は市中に出回っているが、肝心の金は、彼の金庫に眠ったままだ。その同じ金で二重に預かり証を作り、それを他の商人に貸し出して、金利をとってもいいのではないか。
こうして金細工師は、自分の保管している金の量以上の預かり証を発行できる事を発見した。しかし、この事は秘密である。預かり証を持ったすべての商人たちが同時に金に換えてくれと要求したら、彼は立ち往生してしまう。しかし、商人たちが金細工師が預かり証をいつでも金に換えてくれると「信用」している限り、そんなことは起こらない。その信用が続く限り、預かり証は、価値あるものとして商人たちの間でやりとりされる。こうして金細工師たちは、預かり証という「紙切れ」から金を生み出す「錬金術」を発明した。現代の中央銀行は、預かり証を刷る金細工師の役割を果たしているのである。
■3.金細工師の「志」■
金細工師のたとえ話を続けよう。ある中世ヨーロッパの都市で営業する金細工師は、自分が預かり証を大量に発行して貸し出しを増やすことで、街中の商売を活性化し、市民を豊かにできる事に気がついた。そこで商人たちに貸し付けを大幅に増やしてやろうと持ちかけたのだが、商人たちは現状の取引に必要な資金は十分に借りているので、もうこれ以上の貸し付けは必要ないと答えた。しかし金細工師は、利子はぐっと安くしておくから、もっと借りてくれと迫った。
むげに断ると、今後、資金が必要になった時に、貸してくれなくなるかもしれない、仕方ないからおつきあいで借りよう、と商人たちは決心した。しかし、本来の商売の方は、狭い都市の中のこと、急に資金をつぎ込んだからと言って、これ以上、売り上げを伸ばす余地も限られている。
そこで商人たちが目をつけたのが都市の周辺に広がる土地であった。その土地を商人たちが借りた金で買い始めると、たちまち地価が値上がり始めた。値上がった所で土地を売ると、莫大な値上がり益が懐に転がり込むことを商人たちは知った。こうなると商人たちはさらに金細工師から金を借りて土地買いに走る。土地の値段はますます上がった。バブルである。
「確かに景気はよくなったが、これでは土地や資本を持つものばかりが豊かになるだけで、一般市民は家も買えない」と金細工師は気がついて、貸し出しに急ブレーキをかけた。金細工師から金を借りられなくなっては、商人たちも土地転がしができない。土地の買い手は急に姿を消し、この時点で高値の土地を持っていた商人がババを引いた。残ったのは、値段の暴落した土地と、金細工師への借金の山であった。多くの商人が破産し、その後、不況が長く続いた。
■4.窓口指導によるアクセルとブレーキ■
ヴェルナーは日銀がこの金細工師と同じことをしたと、いくつかの事実を挙げて告発している。日銀は戦後まもなくの頃から、市中銀行への貸出をコントロールする仕組みを作りあげていた。毎月、日銀総裁と営業局長が融資総額の伸び率を決め、各銀行に割り当てを配分する。そして各銀行の幹部は文字通り、日銀の窓口カウンターで融資割当額を告げられるので、この仕組みは「窓口指導」と呼ばれるようになった。
この窓口指導は各銀行の貸し出しを極めて厳格にコントロールした。割当額を超過しても、未消化でも、次回の割当額が減らされてしまうからだ。ヴェルナーがインタビューした銀行の日銀担当者は次のように証言している。
割当枠は、銀行によって完全に費消されるものと想定されていた。もし、それを下回ったら、われわれの割当枠は競争相手にくらべて減らされてしまう。だから完全に使いきったのだ。それは食べないといけないお弁当のようなものだ。
1980年時点で企業の資金の87%は銀行からの借り入れであり、さらに各銀行への貸出しを日銀が窓口指導でコントロールしていたので、事実上、日銀は日本経済のブレーキもアクセルも握っていたことになる。
■5.日銀はバブル期に融資拡大をうながした■
高度成長期に企業の資金需要が旺盛だった頃、窓口指導は資金供給を適切に抑えてインフレの過熱を防ぎ、かつ銀行間の過当競争を抑えるという役割を果たしていた。しかし80年代に入って、アメリカの貿易赤字と財政赤字が大きな問題となり、日本の機関投資家の対米投資によって穴埋めしようと、87年10月から89年5月まで2年3ヶ月にわたって、2.5%という超低金利政策がとられた。[a]
この際に日銀はさらに窓口指導をアクセルとしてふかした。ある日銀職員はこう証言している。
日銀はバブル期に融資拡大をうながした・・・いまから(1980年代を)振り返ると、それはまちがいだったことがわかる。私の個人的意見だが、金利を引き下げたときに窓口指導の貸出増加枠を引き下げるというポリシー・ミックスをとれば、このようなバブル・エコノミーにはならなかったと思う。しかし実際には、金利を非常に下げて、窓口指導を極端に上げてしまったから、マネー・サプライは10%から13%近くまで上がったりした。・・・
どの銀行も、貸出増額の割当枠をマキシム・レベル(最大限)まで使おうとし、一生懸命融資を伸ばした。そうしないと次の期に貸出をけずられる。それは融資担当者にとって非常に不名誉なことだった。・・・
しかし、融資は鉄鋼や自動車などまともな企業には向かわず、建設業や(不動産投機に手を出していた)ノンバンクに向かった。これでバブルになった。[1,p212]
■6.日銀は「もっと使いなさい!」と言った■
日銀によるアクセルに関しては銀行側の証言も一致している。
バブル期には、われわれはある程度の貸出はめざしていたが、日銀はそれ以上をわれわれに求めていた。1985年以降、日銀は「もっと使いなさい!」と言った。ふつうなら、こちらが欲しいだけの枠をもらえることはない。・・・1986年から87年にかけてはとくに、日銀は、もっと使いなさい、不況なんですから、と言った。・・・実際、われわれは、これはちょっと多すぎる、と考えた。しかし、与えられた枠を使い残すことはできなかった。もし、使い残せば、同じような枠を受けているほかの都銀に負けるかもしれない。[1,p207]
日銀の窓口指導でアクセルを踏まれた銀行は、必死に貸出を増やす。80年代末の銀行の貸出総額の伸びはほぼ12%程度に達していた。実際の経済活動による国民所得の伸びはその半分程度でしかなかったから、残りのマネーは土地や株の投機に流れ込み、バブルを生んだ。85年1月から89年12月までに、株価は240%、地価は245%上昇した。日本の地価総額は、26倍もの国土を持つアメリカの4倍にも達した。
89年半ば、銀行がとつぜん貸出額の伸びを抑え始めると、半年後に株価や地価の暴落が始まった。90年だけで、株式市場は32%下落し、商業地域で投機対象となった地価は70%以上も下落した。銀行はそれまでの99兆円ものバブル融資が不良債権化することを恐れ、バブルとは何の関係もない中小企業への貸出まで減らした。雇用の70%を占める中小企業は銀行からの融資を制限され、倒産や失業が増加していった。
■7.「国際協調のための経済構造調整」■
本誌78号[a]では、歴史的な低金利をバブルの原因とする説を紹介したが、この低金利に日銀の窓口指導による貸出増加が加わって、バブルが発生したと考えてよさそうだ。しかし、まだ謎として残るのが、なぜ日銀が市中銀行に無理な貸し付けを強要したのか、という点である。
ヴェルナーは、歴代日銀総裁の言動から、この謎に迫っていく。バブル期の日銀総裁は澄田智だったが、日銀のライバル大蔵省から来た澄田は窓口指導についても何も知らされてはいなかったとヴェルナーは指摘している。窓口指導の実権を握っていたのは、前総裁・前川春雄とその愛弟子である副総裁・三重野康という二人の生え抜きの日銀マンであるという。
前川は1986(昭和61)年4月にまとめられた「前川レポート」で有名である。このレポートは当時の中曽根首相が前川を座長として設置した「国際協調のための経済構造調整研究会」の報告書としてまとめられ、輸出主導から内需主導の経済成長への転換を求めていた。翌年5月にさらに具体的内容を追加した「新前川レポート」がまとめられたが、その時には三重野もメンバーに加わっていた。
規制緩和と内需拡大、それらを通じた輸入拡大、貿易黒字の縮小はまさにアメリカの望んでいた内容であったが、その後の日銀の窓口指導は、まさに前川レポートと軌を一にしていた。前川や三重野は自らの日銀での権限を利用して「国際協調のための経済構造調整」を実現しようとした、というのが、ヴェルナーの主張である。
■8.前川レポートの「10年計画」■
89年12月に日銀総裁になった三重野は、公定歩合を引き上げてバブルを破裂させた。バブルは富の不平等をもたらすと主張し、生涯に株を一度も買ったことがないと誇らかに言う三重野を、マスコミは「貧しいものの味方」と囃したてた。
その後、大蔵省は経済回復のために数度にわたって公定歩合を引き下げるよう日銀に要求し、政府も92年から94年までに合計4回、総額45兆円もの追加予算を支出したが、景気は回復しなかった。日銀が通貨供給量の引き締めを続けていたからである。人々は不況にあえぎ、96年はじめには失業者数が5百万人を超えた。
前川レポートは日銀の内部では、当時も今も「10年計画」と呼ばれている。86年当時、「国際協調のための経済構造調整」という前川レポートの主張は、一部の国際主義者を除いては、国民の間にはほとんど説得力を持ち得なかった。しかし、バブル崩壊後の危機を通じて、96年にはもはや日本のシステムは時代遅れだとして、規制緩和、構造改革、グローバル・スタンダードの大合唱が始まっていた。国民は危機を通じて「10年計画」の洗脳を受けたのである。
われた。一方、日銀は97年6月に成立した改正日銀法により大蔵省からの独立を達成した。
日銀のライバル・大蔵省はバブルとその崩壊後の不況の責任を問われ、規制緩和のかけ声の中で許認可権は縮小され、また金融機関に関する監督権も、独立した金融監督庁に奪
■9.現代の「関東軍」■
ヴェルナーの告発は、前川や三重野が「国際協調のための経済構造調整」という自らの理想を実現するためにバブルとその崩壊後の不況という危機を作り出し、さらにその過程でライバル・大蔵省を解体させ、日銀の独立を勝ち得た、というものである。その主張にはいくつかの事実の裏付けがあり、相当の説得性があるが、なお異論の余地もあるだろう。
ただし、故意か過失かは別にして、日銀の政策がバブルの発生と崩壊、その後の長期不況の原因である、というヴェルナーの告発に対して、改正された日銀法では、もはやその責任を問うことはできない。日銀の理念は「物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資すること」と定めているので、バブルが起ころうが、破裂して不況が長続きしようが、物価が安定さえしていれば、それ以外の事について責任を問われる筋合いではない、と答えることができる。なにしろバブルをはさんだ86年から96年までの期間のインフレ率はわずか1.2%と極めて優秀な成績を残しているのだから。
そして首相が言うことを聞かない日銀総裁を更迭しようにも、それはできない。日銀法第25条では「日本銀行の役員は、・・・在任中、その意に反して解任されることがない」と定められている。
日銀の中で窓口指導を行う営業局の権限は非常に大きく、「関東軍」と呼ばれていた。前川や三重野が政府の意向を無視して、バブルの発生から崩壊、その後の不況まで、日本経済を引っ張っていったのだとしたら、確かにその姿は戦前の関東軍とだぶってくる。そのような中央銀行は「人民の自由にとっての脅威」であるとするジェファソンの警告は今も生きていると言わざるを得ない。
(文責・伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(078) 戦略なきマネー敗戦
日本のバブルはアメリカの貿易赤字補填・ドル防衛から起きた。
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. リチャード・ヴェルナー、「円の支配者」★★、H13
■ 編集長・伊勢雅臣より
■■ Japan On the Globe(278) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■■
The Globe Now: 日本銀行 ~ 現代の「関東軍」!?
日本銀行は、政府の意向にも従わずに、国民経済
を自由に操る実権を握っている!?
■■■■ H15.02.02 ■■ 39,308 Copies ■■ 708,136 Views ■■
円の支配者 - 誰が日本経済を崩壊させたのか
リチャード A ヴェルナー (著), 吉田 利子 (翻訳)
Amazon.co.jp
「バブルの創出も崩壊も日銀の『日本改造10年計画』の中に組み込まれていた」というのが本書の主題である。著者のリチャード・A・ヴェルナーは日本銀行の客員研究員時代の調査をもとに、権力が集中し、コントロールを失った日銀の内部事情を明らかにし、その金融政策がバブルの創出、崩壊にいかなる影響を及ぼしたのかについて厳しい指摘をしている。
経済政策は旧大蔵省が行う財政政策と中央銀行(日本銀行)が行う金融政策に大きく分けられる。だが、戦後の日本においては、大蔵省の財政政策ばかりに注目が集まり、日本銀行の経済に対する影響力は見過ごされていた。著者によれば、財政政策の効果は日銀が貨幣をコントロールすることで変えられるし、実際に日本銀行はそうすることによって日本の構造改革を進めようとした、というのだ。
本書を読めば、国民によって選ばれた人間ではなく、「プリンス」と呼ばれる一部のエリートが日本経済を動かしているという事実に、恐れを抱かずにはいられなくなる。論議をかもすこと間違いなしの衝撃的著作である。(土井英司)
出版社/著者からの内容紹介
バブルの創出も崩壊も日銀の「日本改造十年計画」の中に仕組まれていた! 政府が景気回復に向けて必死の努力をしていたとき、なんと日銀は信用を収縮させ、景気回復を故意に遅らせたのである。 なぜか? 著者は名探偵のごとく犯人を追いつめ、遂に日銀の陰謀ともいえる行動を突き止める。 日本を震撼させる力作!
【円の支配者:マネーのプリンスたち】より抜粋
日本の敗戦から2001年までに26人が首相として君臨した。だが、この国はじつはわずか6人に支配されてきた。新木、一万田、佐々木、前川、三重野、そして福井である。過去50年間では5人である。1962年から94年までという大事な時期には、国家の操縦舵を握っていたのはたった3人であった。佐々木、前川、三重野だ。
国民は投票で忙しく政治家を選んだり、放逐したりしてきた。ところが実際の支配者は確固とした権力を握り、民主的なチェック・アンド・バランスとは無縁のところで意思決定をおこなって、誰にお金を手にさせ、誰には手に渡さないか、経済を不況に向かわせるか、景気を回復させるか、そしてどれほどの人を失業させ、どれほどに職を得させるかを決めてきたのである。
見る目を持った日銀スタッフには、日本銀行にはエリート中のエリートが存在する事は自明だった。この少数のグループは信用創造量を決定し、窓口指導の権力を頑健に守って、誰にも口出しさせなかった。彼らは後継者を自分たちで選んだばかりでなく、忠実な部下だけを営業局長やその下の重要ポストに就けた。窓口指導政策を管轄する営業局の権利は非常に大きく、日銀の他の部門から独立していたので、他の日銀マンは彼らを「関東軍」と呼んだ。
大蔵省出身の人物が日銀総裁に任命されている時は、総裁は重要なコントロール・メカニズム、すなわち信用創造量の決定から排除される、という事だ。信用創造量は部下の日銀スタッフが決定し、総裁への報告はなかった。世論は日銀の真の統治者について誤解させられてきたのである。
←脱米自立まで,ワンクリック!
日本銀行は、政府の意向にも従わずに、国民経済
を自由に操る実権を握っている!?
■1.「人民の自由にとっての脅威」■
公的に通用するお金を発行する民間中央銀行の存在は、
人民の自由にとって常備軍よりもさらに大きな脅威である。
アメリカ独立宣言の起草者、トーマス・ジェファソンの言葉である。
アメリカ合衆国は大英帝国の圧政から独立しただけに、その指導者たちは人民の自由に関してはことのほか鋭敏だった。
たしかに中央銀行が通貨をコントロールして、自在にインフレを起こしたら、国民の貯蓄は知らないうちに目減りしてしまうわけで、これは私有財産の略奪にあたる。さらに、もし中央銀行がその通貨政策によってバブルを発生させたり、破裂させたりできるとすれば、自由に経営者を破産させたり、従業員を路頭に迷わせたりもできるわけで、たしかに人民の自由にとって「大きな脅威」だと言えよう。
日本経済は80年代後半からのバブルとその崩壊後の苦難の時期が続いている。ドイツ人エコノミスト、リチャード・ヴェルナーの「円の支配者」は日本の中央銀行たる日本銀行こそ、その真犯人であると告発した書である。
■2.金細工師の錬金術■
まず、中央銀行が市中の通貨量をコントロールする方法を見ておこう。ヴェルナーは13世紀のヨーロッパで誕生した紙幣を例にして、次のように巧みな説明をしている。
当時の豊かな商人たちは、金を金細工師に預け、預かり証を受け取っていた。やがて商人たちは、仕入れをして代金を支払う際に、いちいち金の現物を渡さなくとも、預かり証を渡してしまえば良い、と気がついた。こうして金の替わりにその預かり証が商売の決済手段として受け入れられるようになった。この預かり証が紙幣の原型である。
まもなく金細工師は、一つのトリックを思いついた。預かり証は市中に出回っているが、肝心の金は、彼の金庫に眠ったままだ。その同じ金で二重に預かり証を作り、それを他の商人に貸し出して、金利をとってもいいのではないか。
こうして金細工師は、自分の保管している金の量以上の預かり証を発行できる事を発見した。しかし、この事は秘密である。預かり証を持ったすべての商人たちが同時に金に換えてくれと要求したら、彼は立ち往生してしまう。しかし、商人たちが金細工師が預かり証をいつでも金に換えてくれると「信用」している限り、そんなことは起こらない。その信用が続く限り、預かり証は、価値あるものとして商人たちの間でやりとりされる。こうして金細工師たちは、預かり証という「紙切れ」から金を生み出す「錬金術」を発明した。現代の中央銀行は、預かり証を刷る金細工師の役割を果たしているのである。
■3.金細工師の「志」■
金細工師のたとえ話を続けよう。ある中世ヨーロッパの都市で営業する金細工師は、自分が預かり証を大量に発行して貸し出しを増やすことで、街中の商売を活性化し、市民を豊かにできる事に気がついた。そこで商人たちに貸し付けを大幅に増やしてやろうと持ちかけたのだが、商人たちは現状の取引に必要な資金は十分に借りているので、もうこれ以上の貸し付けは必要ないと答えた。しかし金細工師は、利子はぐっと安くしておくから、もっと借りてくれと迫った。
むげに断ると、今後、資金が必要になった時に、貸してくれなくなるかもしれない、仕方ないからおつきあいで借りよう、と商人たちは決心した。しかし、本来の商売の方は、狭い都市の中のこと、急に資金をつぎ込んだからと言って、これ以上、売り上げを伸ばす余地も限られている。
そこで商人たちが目をつけたのが都市の周辺に広がる土地であった。その土地を商人たちが借りた金で買い始めると、たちまち地価が値上がり始めた。値上がった所で土地を売ると、莫大な値上がり益が懐に転がり込むことを商人たちは知った。こうなると商人たちはさらに金細工師から金を借りて土地買いに走る。土地の値段はますます上がった。バブルである。
「確かに景気はよくなったが、これでは土地や資本を持つものばかりが豊かになるだけで、一般市民は家も買えない」と金細工師は気がついて、貸し出しに急ブレーキをかけた。金細工師から金を借りられなくなっては、商人たちも土地転がしができない。土地の買い手は急に姿を消し、この時点で高値の土地を持っていた商人がババを引いた。残ったのは、値段の暴落した土地と、金細工師への借金の山であった。多くの商人が破産し、その後、不況が長く続いた。
■4.窓口指導によるアクセルとブレーキ■
ヴェルナーは日銀がこの金細工師と同じことをしたと、いくつかの事実を挙げて告発している。日銀は戦後まもなくの頃から、市中銀行への貸出をコントロールする仕組みを作りあげていた。毎月、日銀総裁と営業局長が融資総額の伸び率を決め、各銀行に割り当てを配分する。そして各銀行の幹部は文字通り、日銀の窓口カウンターで融資割当額を告げられるので、この仕組みは「窓口指導」と呼ばれるようになった。
この窓口指導は各銀行の貸し出しを極めて厳格にコントロールした。割当額を超過しても、未消化でも、次回の割当額が減らされてしまうからだ。ヴェルナーがインタビューした銀行の日銀担当者は次のように証言している。
割当枠は、銀行によって完全に費消されるものと想定されていた。もし、それを下回ったら、われわれの割当枠は競争相手にくらべて減らされてしまう。だから完全に使いきったのだ。それは食べないといけないお弁当のようなものだ。
1980年時点で企業の資金の87%は銀行からの借り入れであり、さらに各銀行への貸出しを日銀が窓口指導でコントロールしていたので、事実上、日銀は日本経済のブレーキもアクセルも握っていたことになる。
■5.日銀はバブル期に融資拡大をうながした■
高度成長期に企業の資金需要が旺盛だった頃、窓口指導は資金供給を適切に抑えてインフレの過熱を防ぎ、かつ銀行間の過当競争を抑えるという役割を果たしていた。しかし80年代に入って、アメリカの貿易赤字と財政赤字が大きな問題となり、日本の機関投資家の対米投資によって穴埋めしようと、87年10月から89年5月まで2年3ヶ月にわたって、2.5%という超低金利政策がとられた。[a]
この際に日銀はさらに窓口指導をアクセルとしてふかした。ある日銀職員はこう証言している。
日銀はバブル期に融資拡大をうながした・・・いまから(1980年代を)振り返ると、それはまちがいだったことがわかる。私の個人的意見だが、金利を引き下げたときに窓口指導の貸出増加枠を引き下げるというポリシー・ミックスをとれば、このようなバブル・エコノミーにはならなかったと思う。しかし実際には、金利を非常に下げて、窓口指導を極端に上げてしまったから、マネー・サプライは10%から13%近くまで上がったりした。・・・
どの銀行も、貸出増額の割当枠をマキシム・レベル(最大限)まで使おうとし、一生懸命融資を伸ばした。そうしないと次の期に貸出をけずられる。それは融資担当者にとって非常に不名誉なことだった。・・・
しかし、融資は鉄鋼や自動車などまともな企業には向かわず、建設業や(不動産投機に手を出していた)ノンバンクに向かった。これでバブルになった。[1,p212]
■6.日銀は「もっと使いなさい!」と言った■
日銀によるアクセルに関しては銀行側の証言も一致している。
バブル期には、われわれはある程度の貸出はめざしていたが、日銀はそれ以上をわれわれに求めていた。1985年以降、日銀は「もっと使いなさい!」と言った。ふつうなら、こちらが欲しいだけの枠をもらえることはない。・・・1986年から87年にかけてはとくに、日銀は、もっと使いなさい、不況なんですから、と言った。・・・実際、われわれは、これはちょっと多すぎる、と考えた。しかし、与えられた枠を使い残すことはできなかった。もし、使い残せば、同じような枠を受けているほかの都銀に負けるかもしれない。[1,p207]
日銀の窓口指導でアクセルを踏まれた銀行は、必死に貸出を増やす。80年代末の銀行の貸出総額の伸びはほぼ12%程度に達していた。実際の経済活動による国民所得の伸びはその半分程度でしかなかったから、残りのマネーは土地や株の投機に流れ込み、バブルを生んだ。85年1月から89年12月までに、株価は240%、地価は245%上昇した。日本の地価総額は、26倍もの国土を持つアメリカの4倍にも達した。
89年半ば、銀行がとつぜん貸出額の伸びを抑え始めると、半年後に株価や地価の暴落が始まった。90年だけで、株式市場は32%下落し、商業地域で投機対象となった地価は70%以上も下落した。銀行はそれまでの99兆円ものバブル融資が不良債権化することを恐れ、バブルとは何の関係もない中小企業への貸出まで減らした。雇用の70%を占める中小企業は銀行からの融資を制限され、倒産や失業が増加していった。
■7.「国際協調のための経済構造調整」■
本誌78号[a]では、歴史的な低金利をバブルの原因とする説を紹介したが、この低金利に日銀の窓口指導による貸出増加が加わって、バブルが発生したと考えてよさそうだ。しかし、まだ謎として残るのが、なぜ日銀が市中銀行に無理な貸し付けを強要したのか、という点である。
ヴェルナーは、歴代日銀総裁の言動から、この謎に迫っていく。バブル期の日銀総裁は澄田智だったが、日銀のライバル大蔵省から来た澄田は窓口指導についても何も知らされてはいなかったとヴェルナーは指摘している。窓口指導の実権を握っていたのは、前総裁・前川春雄とその愛弟子である副総裁・三重野康という二人の生え抜きの日銀マンであるという。
前川は1986(昭和61)年4月にまとめられた「前川レポート」で有名である。このレポートは当時の中曽根首相が前川を座長として設置した「国際協調のための経済構造調整研究会」の報告書としてまとめられ、輸出主導から内需主導の経済成長への転換を求めていた。翌年5月にさらに具体的内容を追加した「新前川レポート」がまとめられたが、その時には三重野もメンバーに加わっていた。
規制緩和と内需拡大、それらを通じた輸入拡大、貿易黒字の縮小はまさにアメリカの望んでいた内容であったが、その後の日銀の窓口指導は、まさに前川レポートと軌を一にしていた。前川や三重野は自らの日銀での権限を利用して「国際協調のための経済構造調整」を実現しようとした、というのが、ヴェルナーの主張である。
■8.前川レポートの「10年計画」■
89年12月に日銀総裁になった三重野は、公定歩合を引き上げてバブルを破裂させた。バブルは富の不平等をもたらすと主張し、生涯に株を一度も買ったことがないと誇らかに言う三重野を、マスコミは「貧しいものの味方」と囃したてた。
その後、大蔵省は経済回復のために数度にわたって公定歩合を引き下げるよう日銀に要求し、政府も92年から94年までに合計4回、総額45兆円もの追加予算を支出したが、景気は回復しなかった。日銀が通貨供給量の引き締めを続けていたからである。人々は不況にあえぎ、96年はじめには失業者数が5百万人を超えた。
前川レポートは日銀の内部では、当時も今も「10年計画」と呼ばれている。86年当時、「国際協調のための経済構造調整」という前川レポートの主張は、一部の国際主義者を除いては、国民の間にはほとんど説得力を持ち得なかった。しかし、バブル崩壊後の危機を通じて、96年にはもはや日本のシステムは時代遅れだとして、規制緩和、構造改革、グローバル・スタンダードの大合唱が始まっていた。国民は危機を通じて「10年計画」の洗脳を受けたのである。
われた。一方、日銀は97年6月に成立した改正日銀法により大蔵省からの独立を達成した。
日銀のライバル・大蔵省はバブルとその崩壊後の不況の責任を問われ、規制緩和のかけ声の中で許認可権は縮小され、また金融機関に関する監督権も、独立した金融監督庁に奪
■9.現代の「関東軍」■
ヴェルナーの告発は、前川や三重野が「国際協調のための経済構造調整」という自らの理想を実現するためにバブルとその崩壊後の不況という危機を作り出し、さらにその過程でライバル・大蔵省を解体させ、日銀の独立を勝ち得た、というものである。その主張にはいくつかの事実の裏付けがあり、相当の説得性があるが、なお異論の余地もあるだろう。
ただし、故意か過失かは別にして、日銀の政策がバブルの発生と崩壊、その後の長期不況の原因である、というヴェルナーの告発に対して、改正された日銀法では、もはやその責任を問うことはできない。日銀の理念は「物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資すること」と定めているので、バブルが起ころうが、破裂して不況が長続きしようが、物価が安定さえしていれば、それ以外の事について責任を問われる筋合いではない、と答えることができる。なにしろバブルをはさんだ86年から96年までの期間のインフレ率はわずか1.2%と極めて優秀な成績を残しているのだから。
そして首相が言うことを聞かない日銀総裁を更迭しようにも、それはできない。日銀法第25条では「日本銀行の役員は、・・・在任中、その意に反して解任されることがない」と定められている。
日銀の中で窓口指導を行う営業局の権限は非常に大きく、「関東軍」と呼ばれていた。前川や三重野が政府の意向を無視して、バブルの発生から崩壊、その後の不況まで、日本経済を引っ張っていったのだとしたら、確かにその姿は戦前の関東軍とだぶってくる。そのような中央銀行は「人民の自由にとっての脅威」であるとするジェファソンの警告は今も生きていると言わざるを得ない。
(文責・伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(078) 戦略なきマネー敗戦
日本のバブルはアメリカの貿易赤字補填・ドル防衛から起きた。
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. リチャード・ヴェルナー、「円の支配者」★★、H13
■ 編集長・伊勢雅臣より
■■ Japan On the Globe(278) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■■
The Globe Now: 日本銀行 ~ 現代の「関東軍」!?
日本銀行は、政府の意向にも従わずに、国民経済
を自由に操る実権を握っている!?
■■■■ H15.02.02 ■■ 39,308 Copies ■■ 708,136 Views ■■
円の支配者 - 誰が日本経済を崩壊させたのか
リチャード A ヴェルナー (著), 吉田 利子 (翻訳)
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「バブルの創出も崩壊も日銀の『日本改造10年計画』の中に組み込まれていた」というのが本書の主題である。著者のリチャード・A・ヴェルナーは日本銀行の客員研究員時代の調査をもとに、権力が集中し、コントロールを失った日銀の内部事情を明らかにし、その金融政策がバブルの創出、崩壊にいかなる影響を及ぼしたのかについて厳しい指摘をしている。
経済政策は旧大蔵省が行う財政政策と中央銀行(日本銀行)が行う金融政策に大きく分けられる。だが、戦後の日本においては、大蔵省の財政政策ばかりに注目が集まり、日本銀行の経済に対する影響力は見過ごされていた。著者によれば、財政政策の効果は日銀が貨幣をコントロールすることで変えられるし、実際に日本銀行はそうすることによって日本の構造改革を進めようとした、というのだ。
本書を読めば、国民によって選ばれた人間ではなく、「プリンス」と呼ばれる一部のエリートが日本経済を動かしているという事実に、恐れを抱かずにはいられなくなる。論議をかもすこと間違いなしの衝撃的著作である。(土井英司)
出版社/著者からの内容紹介
バブルの創出も崩壊も日銀の「日本改造十年計画」の中に仕組まれていた! 政府が景気回復に向けて必死の努力をしていたとき、なんと日銀は信用を収縮させ、景気回復を故意に遅らせたのである。 なぜか? 著者は名探偵のごとく犯人を追いつめ、遂に日銀の陰謀ともいえる行動を突き止める。 日本を震撼させる力作!
【円の支配者:マネーのプリンスたち】より抜粋
日本の敗戦から2001年までに26人が首相として君臨した。だが、この国はじつはわずか6人に支配されてきた。新木、一万田、佐々木、前川、三重野、そして福井である。過去50年間では5人である。1962年から94年までという大事な時期には、国家の操縦舵を握っていたのはたった3人であった。佐々木、前川、三重野だ。
国民は投票で忙しく政治家を選んだり、放逐したりしてきた。ところが実際の支配者は確固とした権力を握り、民主的なチェック・アンド・バランスとは無縁のところで意思決定をおこなって、誰にお金を手にさせ、誰には手に渡さないか、経済を不況に向かわせるか、景気を回復させるか、そしてどれほどの人を失業させ、どれほどに職を得させるかを決めてきたのである。
見る目を持った日銀スタッフには、日本銀行にはエリート中のエリートが存在する事は自明だった。この少数のグループは信用創造量を決定し、窓口指導の権力を頑健に守って、誰にも口出しさせなかった。彼らは後継者を自分たちで選んだばかりでなく、忠実な部下だけを営業局長やその下の重要ポストに就けた。窓口指導政策を管轄する営業局の権利は非常に大きく、日銀の他の部門から独立していたので、他の日銀マンは彼らを「関東軍」と呼んだ。
大蔵省出身の人物が日銀総裁に任命されている時は、総裁は重要なコントロール・メカニズム、すなわち信用創造量の決定から排除される、という事だ。信用創造量は部下の日銀スタッフが決定し、総裁への報告はなかった。世論は日銀の真の統治者について誤解させられてきたのである。
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by exod-US
| 2003-02-02 08:30
| 郵政をユダヤ資本から取り戻せ